更新日:2019年6月7日
中山道に関する史跡
中山道は、江戸幕府が、江戸を中心とした政治・軍事上の必要から、五街道(東海道・中山道・甲州道中・奥州道中・日光道中)を整備し、情報伝達や物資輸送を円滑化するために、整備された街道の1つといわれています。中山道は、江戸の日本橋から京都の三条大橋まで、距離135里(約530km)あり、宿場数は六十九次あります。瑞穂市には、江戸日本橋を起点に五六橋川(現 五六川)を越えて五十五番目の宿場となる美江寺宿のほか、中山道に関する史跡があります。
中山道美江寺宿跡(なかせんどうみえじじゅくあと)【市指定史跡】
美江寺宿は、中山道六十九宿のうち五十五番目の小規模な宿場です。この地には奈良時代、養老年中に建立された美江寺(美江寺観音)がありました。しかし、戦国時代、斎藤道三によって岐阜へ移されましたが、地名だけは残りました。1880(明治3)年の宿駅制廃止から約140年を経た現在では、宿場の建物はほとんど残っていませんが、L字型に折れた街道の面影が残っており、1984(昭和59)年9月に巣南町合併30周年・町制施行20周年記念事業の一環として、美江神社境内に「中山道美江寺宿跡」碑を建立しました。
その他、美江寺宿周辺には「美江寺宿跡」、「美江寺一里塚跡」碑、「本陣跡」碑などがあります。美江寺宿内にある史跡についてはこちらをご覧ください。
・美江寺宿の史跡等(pdf 2350KB)
現在も美江寺宿では、伝統や歴史を受け継ぐ、美江寺宿場まつりが春に開催されています。
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中山道美江寺宿跡
(市指定史跡) |
木曽街道六拾九次之内みゑじ
(広重画)
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美江寺宿場まつりの様子
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小簾紅園(おずこうえん)【市指定史跡】
公武合体のため仁孝天皇の第8皇女和宮(かずのみや)が徳川第14代将軍家茂に嫁ぐため中山道を御降嫁された際、呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになる時、色麗しく紅葉している楓を一枝舷に立てさせられ、玉簾の中からご覧になり、
おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と御感慨をお詠みになりました。
この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に記念碑建立の気運が高まり、昭和4年4月その名もゆかしい「小簾紅園」が完成しました。その後、毎年春と秋の2回宮の遺徳をしのび、4月最終日曜日(開催日が変更となる場合がありますので、生涯学習課 TEL 058-327-2117までお問い合わせ下さい)には小祭が神式で(春の例祭)、10月26日には大祭が仏式でおこなわれています(秋の例祭)。
昭和51年10月には、静寛院宮百年忌にあたり、秩父宮妃殿下の御台臨を仰ぎ岐阜県知事を始め多数のご臨席を得て盛大に挙行されました。
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小簾紅園 |
和宮例祭 |
小簾紅園休憩所の観光デジタルサイネージ
小簾紅園休憩所に観光デジタルサイネージを設置しました。このデジタルサイネージは、中山道ウォーキングなどで小簾紅園を訪れる方をターゲットとして、中山道を始めとする瑞穂市の観光情報をタッチ式の画面で提供するものです。(平成30年度岐阜県清流の国ぎふ推進補助事業)小簾紅園に来場の際は、ぜひご覧ください。(事前の予約が必要です。商工農政観光課(電話058-327-2103)へご連絡ください。)
デジタルサイネージに収められている内容のうち、小簾紅園、呂久地区に関する資料を紹介します。
瑞穂市内の中山道ルート
瑞穂市内の中山道ルートは「瑞穂市内の中山道」をご覧ください。
伊久良河宮跡(いくらがわみやあと)【市指定史跡】
全国神社の本宗である伊勢神宮は、皇位の御しるしの八咫(やた)の鏡をご神体とし、皇祖天照大神をお祀りしている皇大神宮(内宮)が信仰の中心となっています。垂仁天皇の時代、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神をお祀りするのに最もふさわしい地を求めて、大和から伊賀、近江を経て、美濃の国の伊久良河宮に遷られました。「日本書紀」をはじめ「倭姫命世記」などには、伊勢神宮の御遷幸のことと共に、伊久良河宮のことも記されています。
居倉の天神神社が伊久良河宮の跡で、境内には古代の祭祀遺跡で、神の宿る石という意味の御船代石(みふなしろいし)が祀られており、神獣文鏡などの祭祀遺物が出土しています。
伊久良河宮の詳細については「伊久良河宮(いくらがわのみや)」の特集ページをご覧ください。
伊久良河宮跡「天照大神御船代石」と「倭姫命御腰懸石」
川崎平右衛門(かわさきへいえもん)に関する史跡
瑞穂市は、東に長良川、西に揖斐川の両大河に挟まれ、市内には犀川などの一級河川が流れており、水に恵まれた土地ですが、反面、水害に悩まされてきました。
江戸時代、美濃郡代(※1)配下の本田代官 川崎平右衛門 がこの地域の治水事業に尽力し、田畑と農民を水害から救いました。市内にある川崎平右衛門に関する史跡を紹介します。
(※1)美濃郡代とは・・・江戸時代に4か所設置された郡代の一つ。美濃国と伊勢国桑名郡の一部の幕府直轄領の民治を司る行政官であり代官です。美濃国は関ヶ原の戦い後、幕府がこの地に有力な大名が出現しないように、10万石未満の多数の藩と幕府直轄領に細分しました。この結果、美濃国の約3割は、幕府直轄領となりました。
川崎平右衛門の供養塔 興禅寺(こうぜんじ)【市指定史跡】
美濃国本田の代官になった川崎平右衛門は、五六川の河口に五六閘門(牛牧閘門)を造り水害から村を救いました。訃報に際して、近隣の村の代表が武蔵国押立村(現 府中市)まで出かけ、愛用の太刀を形見にもらい受けてこの興禅寺に埋めました。その徳をたたえて供養塔が建てられました。
牛牧閘門(うしきこうもん)
長良川の支流、五六川の流末に五六閘門または牛牧閘門と呼ばれる樋門(水門)があります。この水門は、長良川からの逆流による水害から地域を守るため、1907(明治40)年に造られたものです。
1749(寛延2)年に本田代官となった川崎平右衛門の尽力で、この地に初めて木材で水門が1757(宝暦7)年に造られました。
その後、1907年までの150年間に4~5回建て替えられ、1907年に「人造石」工法で永久的な水門となりました。この工法は「コンクリート」工法が普及する以前の工法で、わが国の左官の伝統的技法である「たたき」の技術を大規模な土木工事等に改良・応用したものです。岐阜県内に現存する水門の中で、唯一の「たたき」構造物です。
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現在の牛牧閘門 |
竣工当時(明治40年)の牛牧閘門
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むかい地蔵
地域に伝わる昔話での言い伝え。
結婚を誓った若い男女の物語。古橋村(川下に向かって右側)の若い男が、毎晩木の橋(昔の橋は、木の板が3枚ほど置いてあるだけの簡単なものでした)を渡り、十九条(川下に向かって左側)の若い娘のところへこっそり通っていました。
昔の土地の習わしや地区意識の違いにより、よそ者同士の結婚はとても難しいことで、両親にも強く反対されていました。
しかし、それでも若い二人はあきらめず、ある大雨の降る晩にこっそり逢いますが、思い悩んだ二人は、体を紐で結んで、川へ身投げしてしまいます。
二人が亡くなったあと、それまでいがみあってきた二つの村が話しあって、若い男女の御霊(みたま)を祀るために、橋の両側にお地蔵さんを建てたという悲しい物語です。
この言い伝えは、地域の昔話を集めた本と『穂積の昔ばなし』で紹介されています。
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古橋側の男のお地蔵さん(左)と
十九条側の女のお地蔵さん(右)
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むかい地蔵の舞台となった場所 |
瑞穂の「珍」名所「マンポ」
瑞穂市では、土盛りされ高架されたJR東海道本線の線路が市内を東西に横断しています。高架の下を行き来するための通路が通称「マンポ」です。レンガ積みで作られており、ノスタルジックな雰囲気が漂っています。
マンポは現在でも地元住民の生活道路の一部として使われています。
市内にあるマンポの詳細は「
瑞穂市内のマンポ」のページをご覧ください。