更新日:2016年3月15日

伊勢神宮のふるさと伊久良河宮跡(いくらがわみやあと)

伊久良河宮1  伊勢神宮は全国八万数千の神社の本宗(総本宮)です。皇位の御しるしである八咫鏡(やたのかがみ)をご神体とし、皇祖天照大神をお祀りする皇大神宮(内宮)が信仰の中心となっています。

 大和に朝廷があったころ、天照大神は、最初は宮中にお祀りされていましたが、崇神(すじん)天皇のとき皇女豊鍬入姫命は勅命により天照大神を大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷し、そこでお祀りされました。その後、垂仁天皇のとき、皇女倭姫命がお祀りを引き継がれました。

 倭姫命は、天照大神をお祀りするのに最もふさわしい地を求めて、大和から伊賀、近江を経て、美濃の国の伊久良河宮に遷られました。現在の瑞穂市居倉の天神神社がその跡です。古代の祭祀遺跡御船代石(みふなしろいし)があり、市の史跡に指定されています。

 昭和14年に岐阜県庁から発行された『岐阜県史跡天然記念物調査報告書 第八集』に詳しい調査報告書が載せられています。文化庁発行の『全国遺跡地図』、巣南町(現在の瑞穂市)発行の『巣南町史』など、官公庁による書籍に、伊久良河宮のことが大切に記されています。

 国の正史として書かれた「日本書紀」をはじめ、『皇大神宮延暦儀式帳』、『倭姫命世紀』などは、伊勢神宮の御遷幸のことと共に、伊久良河宮のことを伝える貴重な古記録です。

場所

岐阜県瑞穂市居倉781番地

古代の神座を今に伝える御船代石

伊久良河宮2

 古代にはどの神社も社殿が無いのが普通でした。現代でも社殿のない神社があります。昔は、木や竹の茂った緑ゆたかな叢林を神の御座所として祭りを行いました。人手の加わらない自然こそが神のましますところで、せいぜい、石を置いた壇が設けられている程度でした。そして、周囲に結界を設け、決して足を踏み入れない御禁足地(ごきんそくち)となっていました。神の御座所を犯すのは、神の御心まで荒らすことになるという信仰からです。

 居倉の天神神社は、北側に伊久良川をひかえ、神社境内を堤防で囲んで聖地を区画し、その中心のところに御船代石という一対の石を置いた壇があります。背後には竹や樹木の生い茂った叢林があり、御船代石のあたりが今も遺る古代の神社形態です。

 伊勢神宮の御神体を納める器を御樋代(みひしろ)といいます。それをさらに御船代という器に納めます。古代の神座を御船代石と称するのは、伊勢神宮の御船代にちなんで名づけられたのでしょうか。

 現在は、御船代石の背後に神明神社(御祭神は、天照大神と豊受大御神)、向かって左に倭姫命神社(御祭神は、倭姫命)が建てられています。


昔の御船代石のあたり

伊久良河宮跡3

 御船代石(木版図)

 

 これは江戸時代の木版画です。御船代石を置いた壇と榊、これこそが古代の神座の姿です。御船代石には天照大神御鎮座石(あまてらすおおみかみごちんざせき)、榊には倭姫命御手榊(やまとひめのみことおんてさかき)と説明があります。垂仁天皇のとき、皇女倭姫命がこの地に天照大神をお祀りになり、それから伊勢に遷られましたが、その跡を尊び、天照大神と倭姫命を祀ったのでありましょう。

 近世になって末社を三社建てて、伊勢両宮と倭姫命を祀りましたが、明治以降にこれを二社とし、御船代石に近接する位置に遷しました。ここを中心に伊勢神宮がお祀りされていたという強い意識からそうされたことと思いますが、この版画は原初の姿を伝えていて貴重です。

 この版画の左の方に和歌が一首添えらえています。

 

もろ人の ねがひをここに 天照らす 神のしるしの 栄ふかき葉

 

 人々の願いを天照大神がお聞き下さるしるしとして、このように榊の葉が繁り栄えている―このような意味です。当時の神官だった人の作でありましょう。

 左下に、垣城 謹朝秀写、とあります。大垣の城下に住む朝秀という絵師が謹んで写生申し上げたという意味です。

 

 

 

 

古い記録に残る伊久良河宮

 平安時代の初め、桓武天皇の延暦23年(804)に神宮祢宜(ねぎ)が撰進した皇大神宮儀式帳(皇大神宮延暦儀式帳)は、伊勢神宮のことについて最もくわしく書かれた最も古い記録です。

 この写真は神宮文庫に伝わる鎌倉時代の写本です。この部分は皇大神宮がお遷りになったところを述べています。二行目の後半から「次に淡海の坂田の宮にましまして、次に美濃の伊久良賀の宮にましまして、次に伊勢桑名の野代の宮にましまして」とあります。伊久良賀の宮とありますが、原本は伊久良賀波となっていたのを写本の際に脱字を生じたものとされています。

 年代の特定はできませんが、平安時代末から鎌倉時代初めのころに書かれた倭姫命世記には「垂仁天皇十年から四年間、倭姫命が、天照大神を美濃の伊久良河の宮にお祀りになった。美濃の国造(くにのみやつこ)や県主(あがたぬし)など地方の支配者は、従者・税物・神田・船などを献上した。また、采女としてお仕えした豪家出身の女官も、税物・新田を献上し、その家族からは神事用の土器が献上された」という趣旨のことが記述されています。そしてその後、尾張の中島の宮を経由して、垂仁天皇十四年、伊勢の野代の宮へ遷られたと記しています。

 

ご禁足地から出土した銅鏡

伊久良河宮跡4 御船代石の周辺は神聖なところとして、人の立ち入りを許さない御禁足地でした。神に献げられた物は、その後、人の手にふれることのないようにと焼却されたり、埋納されたりしました。この銅鏡もそうだったのでしょうが、嘉永二年(1849)に御禁足地から出土しました。古墳時代の神獣文鏡の一部分です。

 出土の事情については、岐阜県教育長などをされた川口半平氏の「ほりだした鏡」に書かれています。要旨は次のようです。

 そのころ、この村に熱病が流行しました。村人が寄り集まって話し合ったところ、子どもたちが神社の御禁足地まで入って遊ぶからではなかろうかということでした。そこで、神主さんが発掘を決意し、悪いものが出たら捨てよう、尊いものが出たら祭ろうと提案しました。しかし、村の人たちは恐れて発掘の手伝いを断り神主さん一人に任せました。土の中からは銅鏡の破片が一つ出てきました。神主さんは、これを神社で祀ることにしようと村人に呼びかけましたが、賛成する人はあまりいませんでした。処置を任された神主さんは家に持ち帰ってお祀りしたところ、熱病の流行も収まったということです。

 岐阜県博物館の図録にもこの鏡の写真が掲載されています。

 

現在の天神神社本殿

伊久良河宮跡5 神社は、時代を経るにつれてその形態が変化し、社殿を建ててそこに神を祀るようになります。しかし、居倉の天神神社では、社殿が建てられても、御船代石や叢林というような古代の神社形態を、そのまま大切に守り伝えて来ました。

 ところで、江戸時代に居倉を本拠地とする旗本青木氏(五千石)があり、居倉役所には代官がいました。そして、天神神社を武運長久祈願所とし、元禄十三年(1700)には、流れ造りの本殿と社領六反四畝二十一歩の寄進がありました、本殿は濃尾大地震にも倒壊を免れ、彫刻の美しい当時の姿を今に伝えています。

 本殿の前の二基の石灯籠には、元禄十一年(1698)佐枝政之進尹重、宝永八年(1711)飛州高山 保河通広と刻まれています。手水舎にある石の手水鉢には、享保十五年(1730)吉田忠明とありますが、この寄進者たちには、居倉役所に関係のあった人と思われます。

 また、本殿の背後に聳えるタブノキ(クスノキ科)は樹齢四百年の大樹で、大切な御神木です。瑞穂市の天然記念物に指定されています。

江戸時代の天神神社全景

 この木版画は、江戸時代の天神神社の全景図です。鳥居から参道が続き、橋と神門を経て拝殿に向かいます。拝殿は割拝殿になっています。渡り殿はありません。本社は流れ造りで、玉垣を巡らし、入口に小さい門を設けています。

 本社の向かって右に御船代石と榊が玉垣で囲まれ、大切なことは、その前に拝殿があることです。伊久良川宮・天神宮と、神社名が並称されていた時代のことを確認できるような図です。

 また、末社が三社と、手洗(手水舎)、真名井(神水の井戸)があります。境内の北側には伊久良川があり、犀川に注ぎます。犀川は斉川とも言うと書き添えられてあります。

 境内西側(向かって左)に神家とあるのは神主家で、門も見えています。

 明治2年(1869)の、居倉村差出明細帳には、天神神社の本社のことを「高皇産霊神 神皇産霊神 少彦名命 一社」とし、三つの末社については「天照皇太神宮 一社」、「豊受太神宮 一社」、「倭姫命 一社」と記しています。そして、「御鎮座御船代石二つ、尚、伊久良川宮と申し伝へ候」と述べています。この明細帳は、当時の笠松県役所(県庁)へ差し出された公文書です。

参考 巣南町教育委員会『巣南町教育委員会指定史跡 伊勢神宮御鎮座旧蹟伊久良河宮跡〔巣南町居倉 天神神社〕』