畦地研究室のメンバーと矢野自治会長の記念写真
コミュニティへの誇り(7) 今ある地域資源を活かすこと
 当初8回計画の連載でしたが、2月から3月でゼミ生および教員(畦地)が次々と体調不良となってしまい(世界的疫病とは無関係です)、残念ながら回数が1回減ってしまいました。
 まずは前回の続きとして、矢野さんへのインタビューを補足していきます。前回の安江くんも書いていたのですが、美江寺は「祭り」「子供」を通して、自治会(あるいは中小校区)の結束力が非常に強いという印象を受けました。音楽というのは(感覚そのものなので、食べ物とほとんど同じくらい強く)自分を形作る地域の要因として働きます。例え美江寺や瑞穂市を離れても、何かの拍子に子供の頃に演奏した祭り囃子が甦る。それによって、自分と地域(美江寺)とのつながりを再確認できるとともに、その時に住んでいるところと自分との関係を捉えなおすことができます。もしかするとそれは、瑞穂っ子が別の地域に影響を与えるということかもしれませんし、地元に残って地域振興に関わるということかもしれません。さらに、他の地域からやってきた人たちが「美江寺には(その地域には)このような確固たるものがある」と、自分たちの地域のあり方と比べて、考え、溶け込む手がかりにも成ります。
 以前にも書いたのですが、美江寺には“猩々”や“自然居士”など、能楽に関連する事物が多く存在しています。今回の矢野さんへのインタビューで「なぜお蚕まつりは猩々(今回の写真の背景真ん中の壁に写真がかかっています)を引き回すのか?」ということもお伺いしました。これは豊作の祈願と蚕の病気除けの意味があり、持っている柄杓(ひしゃく)により豊凶作の占いをするということです。(富有楽猩さんにも猩々の“猩”の字が使われているのですが、富有楽猩のWebサイトによると影響を受けた連の名前にちなんだそうで、どうやら無関係のようです)
 福島県に大口大領の取材に行ったときに“はっとう”というお菓子を調べに県南の檜枝岐(ひのえまた)村へも足を伸ばしました。ここは尾瀬への福島県側からの玄関口ですが、桧枝岐歌舞伎という地歌舞伎でも有名です。会津駒ヶ岳をご神体とする神社の境内で行われ、舞台は山側を向いているために、観客は階段にギッシリ座るという形になります。収容人数は5-600人と伺いましたので…そう、ちょうど美江神社境内ぐらいのサイズ感なのではないでしょうか。
 岐阜は県内各地で地歌舞伎が盛んであり、瑞穂市のお隣・本巣市真桑には人形浄瑠璃が残っています。また中山道沿いの能楽演目には“班女”(関ケ原町)があります。美江寺宿場まつりの賑わいを見るにつけ、もしかすると旧中山道をつないだ薪能の開催など、文化度をアピールする場ができるかもしれません。
 アピールということになると、それは各自治会単位では難しいところもあります。このコーナーに我々のゼミが朝日大学として関わらせていただいているのも一端なのですが、市内全体としてどのような地域資源が存在するのか、それがどのような価値を持つのかを捉え直し、全市的に情報発信していく力が必要となります。畦地ゼミは次年度も本コーナーを担当させていただけることになりましたので、従来のような“見て回る”連載だけではなく、調査を元にして地域資源の価値をアピールしていけるような活動にステップアップして行きたいと考えています。例えば市内のこちらの人とあちらの人をつなぐような場づくり・人脈づくりのニカワとなるような役割を、学生があちこちに顔を出すことによって果たしていってくれればという期待を持っています。
 その大きな抱負の第一歩の取りかかりとして、拙い学生のインタビューにお付き合いくださいました三島英盛さんと矢野雅敏さんには、もう一度、深く感謝を申し上げます。文章も拙く、記事中では表現できなかった部分も多かったのですが、参加した学生の目の色が変わるのが見て取れる企画となりました。
 4月以降も、市内の各所…というか、これをお読みのあなたのところに学生(と教員)がお邪魔するかもしれません。どうぞその折には、暖かく迎えいれていただけましたら幸いです。
令和2年3月25日更新
撮影場所:美江寺公民館
撮影日:令和元年11月下旬
学生に語りかける矢野自治会長の写真
コミュニティへの誇り(6) 瑞穂っ子の誇り
 朝日大学経営学部2年の安江真里です。先週の佐藤くんの記事にあったように、11月下旬の土曜日に、美江神社の美江寺公民館で自治会長・矢野雅敏さんのお話を伺いました。
 寒い冬の朝ですが、すでに公民館は開いており、地域の方が神事のお支度をされていました。我々のインタビュー後に行事が始まるのだそうで、大変お忙しいところにお邪魔をしてしまいました。しかし、矢野さんからはおよそ1時間に渡りお話しを伺い、地域に対する熱い想い、地域振興を行う上での熱い信念が伝わってきました。
 特に印象に残ったのが、地域の祭りのお話です。5月に開催される「美江寺宿場まつり」は、先生や佐藤くんの記事にもあったように、年々盛んに大がかりになっています。実はこれは割合に新しいお祭りで、平成7年から始まっているのだそうです。矢野さんは、自治会だけでここまで祭りを発展させたことを力強く語られていました。様々なイベントや出店、毎年増えていく新企画など、なんとなく市役所の行事なのかと思っていましたが、これは全て(業者の参加はありますが)地域の人たちの手作りによるものなのだそうです。
 なぜ美江寺の人たちは祭りを盛り上げているのでしょうか。矢野さんは「横のつながりを強めるには祭りが一番」「祭りが人を育てる」ということを強調されていました。宿場祭りも最初は自治会の小さなお祭りだったそうですが、祭りをすることで地域の人々の輪が広がっていき、結束が強くなっていったそうです。さらに、祭りを盛り上げるために何をすれば良いかを考える人たちが出てきたことで、祭り以外の地域の活動も活発になっていったそうです。
 例えば美江寺には“富有樂猩”という、よさこいのチームがあります。ホームページの「History」には「毎年10月の美江寺神輿に集まっていた仲間が、祭りを盛り上げたいという思いで始めた」という内容が書かれています。地域で育った人たちが、自然に祭りを盛り上げ、地域を盛り上げていきたいという想いを持っているということだと思います。
 それと関連して、矢野さんは「子ども」に強い気持ちを持っていらっしゃいます。「美江寺宿場まつり」などのお祭りは、子どもたちによって成り立っているとおっしゃっていました。例えば中小学校では、地域に古くから伝わる笛や太鼓といった楽器の演奏と練習を行っているそうです。この演奏は、一度途絶えてしまった時期があるそうです。しかし、子どもたちに伝えていきたいという思いから保存会が誕生し、地域の子どもたちに受け継がれることになったということです。富有樂猩さんのサイトにも富有太鼓のことが書かれていますが、今では子どもたちによる伝統音楽の演奏は、地区の祭りだけではなく、みずほふれあいフェスタや汽車まつりなどの全市的なお祭りに欠かせないものとなっています。
 インタビューは1時間弱でしたが、矢野さんの地域に対する強い思い、地域振興を行う上での熱い信念が伝わってきました。また盛り上がるにつれ「美江寺にはこんなものがある」「美江寺でこんなことがあった」と、ここでは書き切れないほどのことをお話ししてくださいました。私は牛牧小校区の出身ですが、隣の地区なのに知らないことが多いということ、またはたして自分は自分の地区についてどれだけ知っているだろうということを、改めて考えました。
 私は瑞穂っ子であり、瑞穂市が好きだと思っています。そして将来は瑞穂市に深く関わる職業に就きたいと思っています。そのために、まずは自分の地域を知り、愛着を深めていく必要があるということを、矢野さんのお話を伺いながら感じていました。
令和2年3月27日更新
(朝日大学経営学部2年 安江真里)
撮影場所:美江寺公民館
撮影日:令和元年11月下旬
美江寺自治会長・矢野雅敏さんへのインタビューのようす
コミュニティへの誇り(5) 瑞穂市美江寺地区とその歴史
 畦地ゼミ2年生の佐藤譲士郎です。美江寺自治会長・矢野雅敏さんへのインタビューですが、あいにく私は部活動の練習日程が合わずに参加できませんでした。その代わり、以前に「みずほバス」の取材で行った、美江寺地区の簡単な歴史を紹介したいと思います。このコーナーでは過去に先輩方や先生が何度も話題にしていますが、おさらいとまとめです。
 美江寺地区の名前の由来は、現在は岐阜市内にある美江寺が位置していたことにあります。斎藤道三によって寺が移されてからはやや寂れてしまったようなのですが、江戸時代初期に中山道の「美江寺宿」が作られたことによって、再び栄えるようになりました。中山道に最後にできた小さな宿場だったとか、木曽街道六十九次の浮世絵で川沿いの田舎道しか描かれていないとか、地味だったという話もゼミで聞きました。ただ長良川の「河渡の渡し」と、皇女和宮ゆかりの小簾紅園がある揖斐川の「呂久の渡し」の間にあることから、なくてはならない宿場だったとも聞いています。
 現在は美江神社という大きな神社があり、地域のお祭りや集まりの中心地となっています。インタビューも、神社の境内にある公民館で行われたとのことですので、次回以降をご覧ください。どうしても“美江寺”という宿場や寺(神社)のイメージが大きいのですが、他にも十六条城や自然居士の墓などの旧跡があります。私はまだ行っていないのですが、先生は今の犀川の岸辺が、浮世絵の「美江寺宿」に似ていて気分が良いところだと言っていました。前回のバスの旅では町の端から端まで歩いたはずなのですが、まだまだ見どころがありそうです。
 美江寺では、今では大きなお祭りが年に3回あります。一番盛んなのは5月に行われる美江寺宿場まつりです。先ほど書いた神社を中心に、旧中山道を歩行者天国にしてステージや出店があるそうで、年々盛んになってきているそうです。3月にはお蚕まつりというものが開催されています。地元の養蚕業関係者が運営をしていましたが、養蚕業がなくなった現在では、歴史や文化を伝える祭りとして開かれています。猩々という人形を山車に乗せて練り歩くのが特徴だそうです。4月には犀川で桜まつりがあり、春の美江寺は祭りで盛りだくさんのようです。
 私は残念ながら土日は部活の練習や試合があり、なかなか地域のお祭りに遊びに行くことはできません。ただ、卒業までにはなんとか一度は体験してみたいなと思っています。
令和2年3月18日更新
(朝日大学経営学部2年 佐藤譲士郎)
撮影場所:美江寺公民館
撮影日:令和元年11月下旬
別府観音堂で記念撮影をする畦地教授、三島さん、白木さんの写真
コミュニティへの誇り(4) (続)別府観音を守る人たち
 前回に引き続き、白木が担当します。今回は、別府観音堂総代会の方々の活動について触れていきたいと思います。
 前回では仏像を防災、盗難から徹底して守っていること、一時期には足が水に浸かったことを書きましたが、別府観音堂総代会の方々はその様な事態が起こらないようにするため、「別府観音と伝統行事を末長く維持すること」という活動目的を持って活動しています。そのために市民の方々に祭事などの行事を通じて、別府観音堂を知ってもらい、子々孫々誇れるものとして次の世代へ伝承するために活動されているとのことです。
 総代会では観音堂近隣の各自治会から選出された役員15名で別府観音堂を日々管理しています。管理する上で様々な災害に対応するため、「別府観音堂リスクマネジメントマニュアル」があることが、この取材の中で分かりました。マニュアルはかなり分厚く、経営学部所属の自分にとっては、授業で習った企業の事業継続性と同じ考え方で作られているように見えます。別府観音を守って地域に残していくことが“ミッション”になっており、これはどの企業にもある存在意義と同じように感じました。前回も書いたように、観音像は管理が徹底されていない時代があり、一部損傷しました。さらに日常的な防火・盗難のリスクに対応するために、マニュアルではPDCAサイクルを取り入れた動きが明記されていました。授業では企業の活動として聞いていたことが、日常的な活動でも活かされているのかと驚きました。総代会の活動が綿密に行われていることを知る反面、経営学の幅の広さや応用力の高さに改めて気づかされました。
 今後の課題として、観音堂のバリアフリー化や、トイレの設置などがあるとも伺いました。観音堂は水害対策だと思うのですが周囲よりかなり高く土盛りした上にあり、急な階段で登るようになっています。足の不自由な方が参拝できるようスロープを作りたいが、建設費の問題だけではなくスロープ用の土地の確保が難しいとのことです。現在、トイレは隣の勝速神社のものをお借りしているそうで、これも参拝客の利便を考えると敷地内に必要だとのことでした。前回私が思った、駐車場や案内のノボリ(や看板)なども含めて、総代会の力だけでは難しそうです。貴重な瑞穂市の文化遺産を守るために、何か協力できることはないかと考えました。
 この取材では、別府観音堂を災害から守る為に総代会の方々が真剣な思いで管理し、後世に残そうと絶えず活動されている事が分かりました。私も祭事に興味が湧き、参加したいと思いました。
令和2年3月11日更新
(朝日大学経営学部2年白木亮輔)
撮影場所:別府観音堂
撮影日:令和元年11月上旬
別府観音堂にて説明をする三島さんの写真
コミュニティへの誇り(3) 別府観音を守る人たち
 朝日大学2年の白木亮輔です。先週の大塚くんの記事にもあったとおり、彼の急な体調不良により、私と畦地先生で別府観音堂堂守・三島英盛さんへの取材をすることになりました。
 別府観音堂は、瑞穂市別府に位置します。穂積駅から別府観音堂へ歩いて向かいました。道が多少狭いこともあり、車では行きづらそうだというのが第一の印象でした。先生によると、駐車場はあるそうですが、小さく分かりにくいとのことでした。駅からは近く、歩くのは10分ぐらいなのですが、住宅地の中を行くので、場所を知っている先生と一緒じゃなければ迷っていたかもしれません。例えば駅からノボリや旗のようなもので「別府観音堂」という案内があると良いな、と思いました。
 三島さんからは、まず別府観音堂の内部の説明を受けながら、見学させていただきました。取材日は第1日曜日で一般に開放されています。お堂はかなりの広さがあり、普通に集会所として使えそうです。縁日やお祭りの時には、地域の方やお客様で満員になるということでした。
 先週の「十一面観世音菩薩像」(県の重要文化財)との写真は、この時に撮影させていただきました。仏像自体は176cmあり、桧(ひのき)一本で作られているため、当時の技術は凄いものだと感じられました。今では、このように大きな仏像を削り出して作れるような巨大な桧は取れないのではないかというお話しでした。
 約千年前から伝わる貴重な文化財であるため、三島さんをはじめとする“別府観音堂総代会”は、防災、盗難の被害を抑えるよう徹底されているのが伺えました。例えば先週の写真のように気軽に近くで撮影ができる一方で、仏像の部屋は耐火金庫のような造りになっており、普段は厳重に鍵がかけられているとのことです。歴史的にはっきりしていない時期に管理されていなかったらしく、両足首より下は水に浸かって腐ったためか、後世(江戸時代ぐらい?)に修復されています。そのようなことが自分たちの時代に起こらないように、管理体制を作っているとのことでした。
 その他にも脇侍(不動明王、毘沙門天)や十王の像があります。これらも全て江戸時代に作られたということで、観音像ほど古くはないのですが、価値が高いものです。私は山県市出身ですが、寺の近くで育ち、子供の頃に皆でお話しを聞く機会がありました。特に十王の像を見ていると、その時のことを思い出しました。
 貴重な文化財である十一面観世音菩薩像を後世にも伝えていくために、三島さんたちが行っている努力や、今後の課題について伺ったことは、次回にご紹介したいと思います。
令和2年2月20日更新
(朝日大学経営学部2年白木亮輔)
撮影場所:別府観音堂
撮影日:令和元年11月上旬