更新日:2024年3月15日

お蚕まつり

 維新後、外国との貿易が盛んになると、繭から作られる絹が輸出の花形産業となり、明治(1868年から1912年)中期より、この地域の農家でも貴重な収入源として養蚕が盛んになりました。

 五穀豊穣を記念する祭りは、毎年旧歴の1月末日に行われていましたが、このような時代背景から、明治後期に養蚕農家が増え、蚕が丈夫に育ち、繭が豊作になることを祈念する「お蚕祭り」になったと言われています。

猩々山車猩々山車の巡行

 伝承では、観音菩薩は、全ての生き物を慈しむとされ、観音信仰が浸透していた当時の人々は、蚕の豊作も観音に願いました。

 第二次世界大戦後、絹製品の衰退に伴い、この地域の養蚕も廃れることになりましたが、美江寺の人々は古式を守り、現在でも毎年3月の第1日曜日を「お蚕祭り」の日とし、100年以上続く祭事を執り行い、地域に残る歴史と文化を脈々と受け継いでいます。

開催日時

 毎年3月の第1日曜日(雨天中止)

 コロナ禍で中止となっていましたが、令和5年3月5日に美江神社内で猩々囃子と猩々が披露されました。

 令和6年3月は、美江寺観音堂の工事のため、中止となりました。

開催場所

  美江神社(岐阜県瑞穂市美江寺917)

  主催:美江寺観世音猩々ばやし保存会

駐車場・トイレ

  トイレ有(美江神社内)駐車場無し

問い合わせ

生涯学習課(巣南庁舎)
〒501-0392 岐阜県瑞穂市宮田300番地2
電話番号/ 058-327-2117


お蚕祭りについてもっと詳しく

美江寺と美江寺観世音

 美江寺は、寺伝によれば、奈良時代に元正天皇(在位715年から724年)の勅願寺院として創建された寺であり、美濃最古の乾漆十一面観音立像(国指定重要文化財)が本尊として納められていました。戦国時代の天文18年(1549年)頃、美濃の国の国主となった齋藤道三によって、稲葉山城下(現在の岐阜市)に移されて以来、長らく廃寺になっていましたが、明治35年(1902年)旧美江寺城主の末裔の和田家が願主となってその秘仏であった観世音菩薩座像(室町時代のもの)を祀り、観音堂を建立したものが現在の美江寺観世音堂です。

 乾漆十一面観音立像は現存し、岐阜市美江寺町にある美江寺に所蔵されています。

美江寺観世音堂乾漆十一面立像

猩々と柄杓占い

 山車の上に飾る人形は、祭りの象徴である「猩々」と言います。「猩々」は一般的には体は猿のよう、毛は朱色で人の言葉を話し、酒を好むと言われ、能楽ではめでたい時に舞う幻の生き物として、右手に栄華をあおる末広と、左手に占いをした桧の柄杓を持っています。

 猩々人形がお蚕祭りに登場した経緯は定かではありませんが、猩々の毛の色は炎を連想させ、火が全てを焼き尽くすように邪気を防ぐと信じられていたことから、蚕に迫る病気等の災いを防ぐ守護として供えられたと言われています。

 お蚕祭りの朝、観世音菩薩坐像を収めている厨子の扉を開け、桧の柄杓を供えます。

 僧侶が読経しながら、番号のついた竹串100本を入れたみくじ箱を振り、出てきた竹串の番号に従い柄杓の底を切り取り、その年の吉凶と転向を占います。

 その柄杓を猩々人形の左手に、右手には末広を持たせ、山車の上に飾ることになっています。

 祭りの最後には、繭が大きく、丸くなるように願いを込めて供えられた繭の形をした団子(米で作った団子:初午団子)を猩々山車の上から集まった人たちに撒く風習があり、現在でも団子を紅白の餅に添えて、集まった人たちに撒く「餅まき」として続けられています。

読経柄杓占い占った柄杓最後に行われる餅まき猩々人形


猩々ばやしと猩々ばやし保存会

 戦後、お蚕祭りに欠かせないものである「猩々ばやし」の演奏にとって重要な役割を担ってきた当時の青年団員が減少し、その結果、昭和37年に猩々山車の巡幸が一時中止され、おはやしの演奏も行われなくなりました。

 その後、猩々ばやしの伝承活動が途絶えたことから、このままでは地域の伝承芸能が消滅してしまうことを憂慮した地元住民が立ち上がり、昭和53年(1978年)に「美江寺観世音猩々ばやし保存会」が結成されました。

 猩々ばやしの保存、継承を目指し、保存会の指導者が地元の小学生(4年生から6年生)を集め、口伝で教えるという活動が始まりました。というのも、おはやしには楽譜がないためです。

 昭和56年(1981年)にはお蚕祭りの価値と、猩々ばやしの継承が認められ、「美江寺観世音お蚕祭り」として、町(旧巣南町)の重要無形民俗文化財指定を受けました。保存会は、毎年3月のお蚕祭りでの演奏をはじめ、県内各地で行われるイベントに出演するなど、その活動の場を徐々に広げるとともに、地域に根付く伝承芸能の継承に励んでいます。

猩々ばやしの練習お蚕祭りでの猩々ばやし奉納 


猩々ばやしの曲紹介

美江寺(みえじ)……文字通り地名に因んだ曲です。

古大門(こだいもん)……美江寺の寺院は天文18(1549)年頃に当時美濃の国を治めていた齋藤道三によって、現在の岐阜市美江寺町に移されましたが、寺院に因んだ地名の一つに「古大門」があり、小字として現存します。

お回り……お蚕祭りは、猩々ばやしを演奏する子どもが猩々山車に乗っておはやしを演奏しながら町内を巡幸するのですが、猩々山車は大きくて大きいので、方向転換する際非常に力が要ります。「お回り」は、この時山車の引き手達が力を出すようこぶするための曲で、刻々と曲のテンポが速くなるのが特徴です。

おひゃあ……京都の祇園ばやしの中にある曲と言われています。

猩々……一番長い曲で、お蚕祭りの日は往々にして粉雪などが降り、寒いのでこの曲を聞くと、「ああお蚕の春子を掃く春が近づいたなー」と感じさせてくれます。美江寺は、奈良の東大寺のお水取りと同様にお蚕祭りが過ぎると暖かくなると言われています。

最盛期のお蚕祭り

 「お蚕祭り」は、大正時代が最盛期で、「美江寺宿」は人で埋まり、数十の露天が並ぶ大変賑やかなものでした。

 猩々人形の立った周囲の四角に青竹と杉葉で作った生垣を巡らし、繭の形にした団子が供えられ、猩々山車の太い綱につかまった童約数十人が町内を曳いて、おはやしを演奏しながら賑わしく練り歩きました。日没前に観世音堂に戻り、半鐘の合図と共に団子・杉葉・藁・青竹など、猩々人形の頭部や衣装を除く山車の上を一切のものを投げる時には、「ワーッ」という喚声、怒声がものすごく、女子どもは絶対に近寄らなかったものでした。この撒き物を持ち帰り、蚕棚におくと蚕機嫌がよいと言われていましたので、当時の人々は目の色を変え死に物狂いでこれを奪い合ったものでした。

 なかでも猩々人形の支柱部分である青竹が投げられると、屈強な男が二十人から三十人もそれにつかまり「ヨイサヨイサ」のかけ声を掛けながら、二十分も三十分も町内を持ち歩き、露店屋の屋台が引っくり返っても「御免」されるほどのものでした。