きりんとかきりんの写真
かきりんがくる(8)瑞穂市に麒麟はくるか?
 この連載では大河ドラマ便乗企画として、瑞穂市と戦国時代の関係について書きつづってきました。調べ物をしながら書いていくという進行でしたが、大きな決戦や合戦はなかったにせよ、当時の様々な人物・事柄・事件が瑞穂市地域に関わっているという驚きがありました。
 本能寺の変では、織田信長の家臣である松野平介が討ち死にしています。穂積町史によると、この人物は吉田松陰の先祖で、舟木・呂久(ほぼ旧巣南町一帯?)を領地として拝領したそうです。例えば、市を挙げてこのような戦国武将を“推しキャラ”としていくことはできないでしょうか?
「麒麟がくる」で取り上げられる時代の後には、関ケ原の合戦が起こります。この際にも、東軍の岐阜城攻めから赤坂布陣の間に、瑞穂市を含む地域において様々な小競り合いが起こりました。およそ中山道と美濃路を利用した進軍が行われたため、合戦は河渡および墨俣の渡しという微妙に瑞穂市から外れた場所で行われましたが、その後の東軍の宿営地、物資集積地として呂久が要所になったと伝えられています。このような細々としたことを積み上げていくと、地域の歴史の深さが偲ばれます。まさに「美濃を制する者は天下を制す」という言葉が実感される、戦略・交通の要地としての地域性ということですね。
 さて、瑞穂市には麒麟は来るでしょうか?この連載の開始直後に、岐阜県内関係8自治体(恵那市・大垣市・可児市・岐阜市・土岐市・瑞浪市・山県市・御嵩町)が大河ドラマを当て込んで観光連携を図るというニュースが飛び込んできました。
 瑞穂市は何をしている?
 とはいえ、大河ドラマによる観光集客効果は限定的です。他地方の自治体でも、観光客増を当て込んでハコモノを作ったはいいが、ブーム後に地域のお荷物になっているというような噂も耳にします。
むしろ地域活性化のためには、大河ドラマのようなキッカケは大切にするにせよ、あまり知られていない瑞穂市の歴史や情報を掘り起こし、そこから知られていなかったこと、誇れることを探していくことの方が重要でしょう。
瑞穂市に、大河ドラマブームのような幻影ではなく、本当の麒麟(瑞兆と繁栄)を呼ぼうではありませんか。
 蛇足ながら連載の最後に一言。岐阜というのは不思議な土地で、国を奪ったヨソモノ蝮(まむし)や、尾張から来た侵略・征服者を称揚し、元々の守護である土岐氏のことを忘れ去っているところがあります。以前にもどこかに書いたのですが、県下に“土岐の鷹”の有力なコレクションを持つ美術館があるとは聞いたことがありません。また、本来であれば再興(明智流)土岐家が幕末まで領主を務めた場所である沼田市と、県下のいずれかの自治体が姉妹都市関係を結んでいてもよさそうなものですが、なんとなく見過ごされたままになっているようです。そんな様子を見るにつけ、うちの巳年生まれの息子の代では美濃の国盗りをしてやろうという野望を新たにする、ヨソモノの今日この頃なのでありました。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成30年12月12日更新
八池山正蓮寺前のかきりん
かきりんがくる(7) 一向一揆・織田信長・津島神社
 織田信長というと「空は飛んで怪光線を出して巨大化したり この世を魔界にかえたり 体真ッ二ツでお茶立てたり」(平野耕太「ドリフターズ」少年画報社より)ということで有名な、一言では語れない日本史上の大魔人とされています。とはいえ、現在の信長研究(の一般書)を通読する限り、織田信長は同時代人の権力者として、取り立てて暴虐・無信心な人間ではなかったとのことです。例えば“桶狭間の合戦”直前には熱田神宮に参拝したことが知られていますし、安八町の結神社には、長篠合戦を控えた信長が戦勝祈願の奉納を行ったという記録が残っています。「自分が神になろうとした」という記録は宣教師が上司に提出した「だから罰が当たって殺された」という文脈の報告書にしか残っていません。
 では何故、比叡山や一向宗を虐殺したかというと…これは戦略的目的に合致するからとしか言いようがありません。できるだけ味方の損失を少なくし、禍根となる敵の拠点を粉砕する。虐殺された方はたまったものではないのですが…女子供も含めて“戦闘員”と見なされる、あるいは“奴隷”として売り飛ばされる、人権も戦争法もない時代の常識的な動き方だったとも言えます。羽柴秀吉も、三木の干し殺し・鳥取の渇え殺しに代表される兵糧攻めや水攻め(殲滅戦)が得意でした。
 さて、信長に反抗するために立てこもった石山本願寺の救援には、当時の信長のお膝もとも言える現在の瑞穂市地域からも門徒衆が駆けつけました。「巣南町史」によると、西濃のかなり広い範囲に点在する「七か寺」の住職がそれぞれ門徒を引き連れ、兵糧調達に尽力したとのことです。当然、信長方の関所があちこちに設けられており、ある者は姿を変え、ある者は山道を迂回し、しかし幾人かは信長の手勢に追撃されるという様子だったそうです。この七か寺には、共有の寺宝として「蓮如上人御自画御寿像」が残されているとのことです。その七か寺の一つ、瑞穂市内に現存するのが「八池山正蓮寺(浄土真宗本願寺派)」です。写真は、かきりんが見切れてしまっていますが、立派なお寺ですね。
 さて、ここからは津島市で聞き込んだ噂話です。長島一向一揆の鎮圧戦は3次に渡り行われました。第3次合戦の時には、信長は本来の本拠地である津島湊に陣を構え、上述のような火攻め・撫で切り作戦を行いました。
 ところが、津島は寺の町とも自称するほど寺が密集しており、そのほとんどが浄土真宗系で、多くは戦国期には成立していました。つまり、信長が本陣とした町に、敵方の勢力が放置されていたということです。さらに一般的には“皆殺し”にされたはずの一揆衆ですが、津島の寺には「長島から逃げてきた門徒を保護した」という文献が残っているのだそうです。噂話では「手元に逃げ込んできた鳥は、見て見ぬふりしたんやろ。というか、そういう逃げ道を残しとったんやろな」ということでした。
 当時の“窮鳥”と“怨敵”の線引きがどのような基準だったのかは、知るよしもありません。ただ、噂や残っているという文献を信じるのであれば、信長もただ血に飢えて門徒を虐殺したのではないということになります。
 もう一つ。正蓮寺には薬師如来座像をお祀りした別堂があります。薬師如来は津島神社におわします津島大神牛頭天王の本地(仏としての神の正体)とされています。浄土真宗の本尊は西方浄土をつかさどる阿弥陀如来(の名号「南無阿弥陀仏」)で、東方浄土をつかさどる薬師如来を別途お祀りするのは必ずしも不自然ではありません。ただ、立像を旨とする浄土真宗の阿弥陀如来像に対し、この薬師如来は座像…ちなみに牛頭天王像の多くは座像です。
 本来であれば正蓮寺様に縁起を取材に行く必要があるのですが、今回は勝手なことを言い散らかしてこの辺で。ただ、地域には信長という時代の巨人の強い影響が残っているのではないか。人々と権力と宗教と、そんな複雑な思いを抱いたのどかな秋の朝でした。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成30年12月5日更新
撮影場所:八池山正蓮寺
犀川河川公園
かきりんがくる(6) 稲葉正成と十七条城
 北海道出身のためか、どこか日本史を「外国史」として見てしまうところがあるように思います。以前の大河ドラマで取り上げられたとき、垂井町岩手地区を通って「ここが竹中半兵衛の根拠地だったのか!」と感慨深いものがありました。彼に関連する西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)・安藤守就(あんどうもりなり)・氏家卜全(うじいえぼくぜん)は、まさにご当地武将。長良川以西の有力な豪族として、土岐・斎藤・織田に仕えた有力者です。今自分が住んでいる地域にゆかりがあるなんて、内地の歴史の重さを実感させられます。
 このうち安藤氏と氏家氏に関しては、戦国の世に翻弄されて宗家が途絶えてしまったようですが、稲葉氏のみは豊後国臼杵藩(現在の大分県臼杵市)の大名として生きのびています。「頑固一徹」という言葉の語源ともされ(ただし幕末編纂の『名称言行録』がソースなので、真偽定かではありません)、勇将であったことで名高い稲葉一鉄。彼は同じく大河ドラマで名高い春日局の母方の祖父(諸説あり)に当たり、局の父が明智光秀の重臣である斎藤利三ということもあり、「麒麟がくる」に登場することは間違いありません。
 いや、登場機会の増加とキャラクター造形の明確化、そして有名俳優を当てるよう、今からでも遅くないので公共放送に働きかけてください、瑞穂市様。
 閑話休題。稲葉一鉄の居城は(現在も城址公園の残る)大垣市の曽根城だったとか。その後(紆余曲折を経て)勢力下に収めた北方城を奪還しようとする安藤守就と“本田合戦”を繰り広げ、敗亡に追い込んだなどということが伝えられています。
 この稲葉一鉄の一族で、地味ながらも戦国史に様々な足跡を残したのが、稲葉正成です。この名前を聞いただけでピンと来た方は、相当の歴史通。そう、関ケ原の合戦で小早川秀秋を東軍に寝返らせ、春日局の前夫であったことでお馴染みの人物です。このあたりも「小早川は最初から東軍だった説」や「春日局とは仮面離婚説」など、掘り起こすと切りがない諸説が山積みなのですが、省きます。ちなみに、正成は林政秀の子で、稲葉一鉄の息子の婿養子という関係になります。
 この稲葉正成が、一時期なりとも瑞穂市にあった十七条城を根拠とした「十七条藩」を支配していたのはご存じでしょうか?元々、正成の出身である林一族が十七条城を根拠としていたそうなのですが、徳川幕府が開かれた後、(恐らく関ケ原合戦の功と春日局の後押しもあり)旧領である十七条城と1万石を拝領し、国持ち大名に昇格したということです。その後、こちらの正成流稲葉氏は、江戸期を通じて移封を繰り返しながらも、最終的には山城淀藩(京都府京都市)10万石領主として落ち着き、幕末まで命脈を保ったとのことです。調べていて知ったのですが、子孫は忠臣蔵に老中としてチラっと出演しています。
 このように名族として名高い稲葉氏と、戦国末期~江戸初期のバイプレイヤー稲葉正成の居城であった十七条城。犀川河川公園の南、熊野神社や圓慶寺を含む、かなり広大な縄張りだったようです。どのような遺構が残っているかというと…私有地なので立ち入れません(残念)。コンクリート工場の南側の地区、中に大きな蔵のような建物がうっすらと見える大藪が本丸跡のようですが…あまり色々書いてご迷惑をおかけすると申し訳ないので、ここで留めておきます。
 今回の写真は、十七条城に程近い犀川河川公園です。写真を撮ったのは美江寺寄りで、歌川広重「木曽海道六十九次」の「みゑじ」に近い風景ですが、血なまぐさい戦乱の世だけでなく、変わらぬ地域の季節のめぐりを思い描くことのできる場所となっています。「瑞穂市百景」を作るとするならば、絶対に含めたいスポットです。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成30年11月28日更新
只越城前に立つかきりんの写真
かきりんがくる(5) 自分がかわいいかきりんだと思い込んで城跡に行って見た
 ありがたいことに、連載を読んでくださる方から直接・間接的に感想をいただくことが増えてきました。その中に「先生は城にも詳しいのですね!」というものがあります。実はさっぱり詳しいことはなく、多くは「穂積町史」「巣南町史」をはじめとする郷土史書の受け売りであったり、インターネット・サイト上の情報を自分なりに総合した結果だったりします。
 しかし、一つだけ必ず行っていることがあります。
 それは、現地には必ず出かけ、自分の目で見てきているということです。
NHKの人気番組「ブラタモリ」(タレントのタモリが各地をブラブラ歩き、町の謎や魅力を解き明かしていく)は、その自分の目で見て歩く魅力を伝える番組と言えるでしょう。「実際に見て、そこで何かを思う」ことに「予習をしていった知識を重ね合わせる」ことができれば、見慣れた自分の町の風景の中にも新たな発見をすることができるようになります。長年住んでいる町でも、必ず少しずつ変化が伴います。「ここに昔は○○があった。その時、自分は××という気持ちで生活していた」という、場所の情報とそれに伴う感情が合わさった記憶である“地域表象”(ちいきひょうしょう)が、その人自身を作り上げていきます。その記憶は、例え将来その地域から離れることになっても、その人から切り離すことのできない地域そのものとなり、その人の中の「小さな瑞穂市(地域)」となり、他の地域へと広がっていくことになるのです。(朝日大学では「地域表象論」(担当:畦地)の授業を単科目で受講することが可能です。詳しくは大学までお問い合わせください)
 さて、瑞穂市内で城跡を「ブラタモリ」するために有効な予習法は何でしょうか?瑞穂市図書館の郷土資料コーナーで様々な参考書を読み解くことも、良い勉強になるでしょう。
 もっと簡便で興味深い情報がまとまっているインターネット・サイトをご紹介します。「城郭放浪記」(http://www.hb.pei.jp/shiro/)さんです。このサイトは、管理人様が実際に行った城跡をまとめられているものですが、全国で16,099城もの情報が登録されています。そして、トップページから「岐阜県→瑞穂市」とクリックしていくと…本田代官所なども含めた瑞穂市内の城跡一覧が表示されます。さらに各城跡の紹介ページでは、Yahoo!地図による近隣の城跡も表示されますので「(本巣市に入った場所ですが)小柿城ってのがあったんだ!?」という新たな発見もあります。ちなみに「本田城」の存在については、私はこのサイトで初めて知りました。恐らく町史には記載がないのではないかと思われます。
 本田城跡は、現在の下本田公民館から道路を挟んで向かい側にあります。シロウト目にも明らかなお堀(低い石垣で補強されている)が残っており、確かに城跡だという雰囲気を醸し出しています。ただし私有地なので立ち入ることはできません。かきりんと写真を撮りに行ったのですが、何が写っているのか分からない画像になってしまったので、「城郭放浪記」様の方で確認していただければと思います。
 その他、まだ紹介できていない城跡に「只越城」があります。こちらは、かきりんとバッチリ写真を撮ってきたのですが…看板だけですね。どこにあるのか今ひとつ分からない方が多いかと思いますが、長良川右岸堤防道路で東海道線の鉄橋をくぐったところ、砕石工場の入り口と言うと見当がつく方が多いのではないかと思います。こちらは「城があったとされる」ということ以上のことは詳しいことが分かっていないようで、隣の別府城との距離感を考えると、本当に独立した城だったのかな?という疑問も生じます。ただ当時と現在の地形は全く異なることと、川1本挟むと領地争いの最前線になる場合もあるので、本当のところはやはり「今後の研究を待たねばならない」ことになるのだと思います。
 こうして跡形もない「城跡」を訪ねて歩く魅力は何なのでしょうか?それを紹介したマンガが最近刊行・連載中です。タイトルは「東京城址女子高生」(山田果苗/KADOKAWA)。東京都内の城跡を散策する部活の生徒たちが、ほとんど痕跡が残っていない史跡に実際に立つことで、往時に対する思いを馳せるという内容になっています。少々登場人物にクセがあるので万人向きではないかもしれませんが、なぜ人が「何もない」「何も残っていない」ところに魅力を感じるのかということが徐々に分かってくる仕掛けとなっております。この連載で、地域を見て歩くことに興味を持たれた方は、是非ご参照ください。(「猛き黄金の国」も合わせて瑞穂市図書館に入らないかなー。チラっ)
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成30年11月21日更新
撮影場所:只越城跡
津島神社前のかきりんの写真
かきりんがくる(4)信長と津島神社の十九条城跡
 今回のかきりんは、十九条城跡と伝えられる“十九条の”津島神社に行ってきました。わざわざ十九条と断ったのは、この近くには犀川を挟んで“古橋の”津島神社があるからです。向かい地蔵(http://www.city.mizuho.lg.jp/4860.htm)の橋を渡って、ちょうど対照的に、十九条側には津島神社と念瑞寺。古橋側には津島神社と受念寺。しかも念瑞寺と受念寺は、同じ真宗大谷派です。
 十九条城は破却されて年月が経ち、シロウト目には全く城跡であった形跡を見つけることができません。どちらかというと、津島さまの立派さが目立ちます。本殿が高い土盛りの上にあり、境内も広く(十九条公民館や遊具もあり)、参道も途中で樽見鉄道の踏切を渡るくらい長く、地域の人たちに親しく尊崇(そんすう)されている神社というイメージです。
 少し不思議なのは、お社が東面(とうめん)していること。神社は神様が南を向いている(つまり参拝者は北に礼拝する)ことが多く、その次に多いのが東面とはいえ、少し不思議な感じがします。ちなみに、参道から本殿を通る線を背後に延長すると…川向こうの津島さま。パワースポットとかレイラインとかいう話は置いておいても「もしかして一体の神社なんじゃないの?」と疑いたくなる配置です。ちなみに神様が西北西を向いていらっしゃる珍しい神社の代表例が諏訪大社の本宮上社ですが、こちらも四社一体の神社という理由からのようです。
 憶測はさておき、歴史的な話題をば。十九条城は織田信長が美濃を攻略のために構築し、親族の織田信益を入れたのが起こりです(さらに前に城跡があったという話も)。Wikipediaでは「信益ではなく広良」となっていますが、いずれにせよ犬山城系(岩倉織田氏)の人物で、信長の家臣となった者のようです。永禄5年(1562年)信益の兄・信清が斎藤方と結んで犬山城で反乱を起こしたのに呼応するように、斎藤方は十九条城から織田の美濃における橋頭堡(きょうとほ)である墨俣城方面に進出しようとします。骨肉相食(こつにくあいは)むとはこのことですね。以下は資料により経緯にバラツキがあるのですがが、信長による増援を得た信益は十四条方面で先鋒として戦闘後、討ち死にしたとのことです。この後、軽海での戦闘によってひとまず斎藤方を退却させた信長は清洲に戻り、その後、十九条城は再構築・利用されることもなく、いつしか荒れ果てていったということです。
 さて、なぜその荒れ城に津島神社が建立されたのでしょうか。理由は2つ考えられます。1つ目は、津島神社は織田信長の産土神(うぶすながみ・生まれた土地の守り神、氏神、鎮守の神の意)であり、(勝幡)織田氏ゆかりの地であることを表しているのではないかということです。信長の生地については、いまだに議論がありますが、勝幡城(愛西市)生まれではないかという説が最有力です。勝幡城は当時の木曽川・伊勢湾水運の大要衝であった津島湊を支配しており、(勝幡)織田氏はその信仰の中心であった津島神社と同じ家紋である“木瓜紋”を掲げています(厳密には違うそうなのですが…)。信長はその後、十九条城を利用することはなかったのですが、織田方の城であったことを偲ぶ当時の地域住民が、織田家に所縁の深い津島神社を勧請(かんじょう)したということは考えられます。
 もう1つの理由は、当時の水運です。犀川も“揖斐川本流だった時代があった”など、当時どこを流れていたのか定かではないのですが、いずれにせよ近代になるまで水運は現在の“高速道路”の役割を果たしていました。犀川近隣には加茂神社、南宮神社などの末社も存在しますが、十八条にはもう一つの津島神社がおわします。これは恐らく、木曽川下流域と地域の強いつながりを示しているのではないでしょうか。実際の船着き場や舟運がどのように行われていたかは想像の域を出ませんが、津島さまは疫病除けの神。多くの人々が行き来していた場所に、勧請されたのではないかと考えることもできます。
 そしていずれも近隣にある、浄土真宗系の寺たち(十八条津島神社の近くには蓮光寺あり)。このあたりは津島で聞いた話を交えて「瑞穂市と一向一揆」の回で詳しく述べたいと思います。
 十九条城跡近辺は、向かい地蔵もさることながら、川崎平右衛門の墓碑があることでお馴染みの興禅寺があります。また、この付近から美江寺方面に犀川左岸堤防道路を歩いて行くと、素晴らしい清流と田園風景を楽しむことができます。荒々しい戦乱の時代の伝承とは別に、のんびりと美しい瑞穂市を堪能するのも一興です。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成30年11月14日更新
撮影場所:十九条の津島神社