マンポの写真
瑞穂市のマンボ探検(7)身近な生活とマンボ
 今回は、朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年畦地ゼミの仲西と松尾が連名でお届けいたします。
 私たちは、瑞穂市内のマンボを端から端まで調べました。数え間違いがなければ、人が通れるマンボは瑞穂市内に8ヶ所あります。地図上では10ヶ所以上あるように見えるのですが、入っていけないところや水路のみのところが存在します。
 多くのマンボは高さが2mも幅も2m未満です。自転車を降りて押して通ったり、大きい人だと少し頭上に気をつけなければならないということになります。明治時代の技術だと(そして東海道線の土盛りの高さが5mであることを考えると)このくらいのサイズにするのが限界だったということでしょうか。
 今回の写真は只越の「三の町橋りょう」で、やや大きめのマンボです。ここは、水路を暗渠にすることなく、道路と並べて通すだけの広さがあります。スーパーや衣料品店・酒販店などのある地区と、穂積中学校前の道路をつなぐショートカットとして利用している人も多いのではないでしょうか。一方で、ここは軽自動車が本当にギリギリでしか通れない幅です。元々は自動車が通ることを想定していないことや、知る人ぞ知る抜け道になっていることを考えると、このままで良いのでしょう。むしろ、無理に道幅を広げずに、水路と共用で使っているところに歴史を感じます。
もう一つ、私たちが「秘境のマンボ」と呼んでいる場所があります。それは駅の北口から線路沿いにどんどん東に進み、舗装がなくなった草地をさらに進んだところにあるマンボ「三の町下水橋りょう」です(写真は来週掲載します)。このマンボは名前が「下水」なのですが、特に汚い水が流れているようには見えません。基本的には水路用としてのみ整備されているようなのですが、実は人が通れます。ただし、本当に通って良いのかどうか…畦地先生が「通れる」と言い出して、ゼミ生は先輩も含めて何人かが通っています。でも、南に抜けたところは金網の柵があり、その向こう側は明らかに畑と住宅で、道路に抜けることができません。水路は金網の向こう側に出ているため、水がどちら側からどこまでどのように抜けているかも分かりません。恐らく、農業用水の余りが長良川方面に出ていくという意味での「下水」なのでしょう。民家の裏側に出てしまうということもあり、また足下も悪いため、あまり積極的に近づいてはいけない場所なのかもしれません。そういう意味で「秘境」と呼んでいます。
ちなみにPR動画でダンスしているマンボは、瑞穂市図書館本館から程近い「雁ヶ坪橋りょう」(のはず)です。こちらは普通の通路になっていますので、「聖地巡礼」に是非どうぞ(みずほバス「馬場十七条線」「十九条古橋線」稲里バス停から徒歩3分)。
その他の市内のマンボも、私たちが調べた限りでは全て現役でした。「秘境のマンボ」も含め、水路用のマンボも塞がれることなく役に立っています。もしかすると「現役のマンボだけが残った」という生存バイアスが働いているのかもしれませんが、町の重要な歴史の一部であることには変わらないと思います。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年 仲西祥真・松尾沙希)
撮影場所:瑞穂市只越
ねじりマンポのようす
瑞穂市のマンボ探検(6)瑞穂市に残るねじりマンボその2
 朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年の仲西祥真です、前回に引き続き横屋のマンボについて投稿します。
 今回は、正直なところきちんと理解できていない部分が多いのですが、戸田清先生の御本を頼りに、ねじりマンボを説明していきます。畦地先生と一緒に読み解いたのですが、「ド文系なので分からん、ぜんぜん分からん」と言っていました。もし間違っている部分があれば全て畦地先生の責任なので、苦情を入れてやってください。
 線路と直角に掘られている普通のマンボの場合には、トンネルの外側の土圧のかかり方が垂直になります。そのため、レンガは水平に積んでいけば、全ての圧力をアーチで受け止めることができます。この水平に積んでいく方法にも色々な技法があるとのことですが、特に両端の処理の仕方によって、トンネル全体の強度に影響を及ぼすのだそうです。
さて、ここから戸田先生による解説です。トンネルが線路と斜めに走っていると、トンネルの端の部分に力が均等にかからない部分ができるのだそうです(戸田先生の本では「アーチの迫持効果が発揮されない部分」と書かれています)。そのため、圧力のかかる強度に応じた角度に合わせてレンガを積んでいくことで、崩れないトンネル補強をしていきます。その結果、全体的に“斜めに”“ねじれて”レンガが積んであるマンボができるのだそうです。これが、ねじりマンボの特徴です。僕も分かったような分からないような気がするのですが、あまり言うと畦地先生が「じゃあ実際に模型を作ってみろ」と言い出しかねないのでやめておきます。
 小野田滋先生の御本によると、ねじりマンボは東海道線を始めとする日本の鉄道建設初期に、御雇外国人技師によってもたらされた技術だということです。多くのマンボは車のすれ違いが難しいサイズのため鉄橋に変えられて、現存する数は少なくなっていますが、まだ各地に残っています。さらにこれはもう“マンボ”とは呼べないかもしれないですが、石造りやコンクリートブロック造りのねじれアーチ橋も存在しているとのことです。
「マンボ」や「ねじりマンボ」の技術は、鉄道発祥の地であるイギリスに数多く残っているとのことです。またフランスなどにも存在しているため、もしかするとローマ時代から続くヨーロッパの石造りアーチ橋の連綿たる技術の一環なのかもしれません。そうして考えると、瑞穂市にその子孫が残っているというのは、何か歴史の大きさというものを感じさせられます。
 今回の記事のために色々調べていたところ、日本最古の石造りアーチ橋は、僕の故郷である沖縄県那覇市にある円覚寺の「天女橋」ということが分かりました。ただ、本当はもっと古い橋があったのに、戦災で失われてしまったのだそうです。一つの地域のことを調べて行くと、思わぬところで自分の地域とつながったりする不思議さを感じました。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年 仲西祥真)
撮影場所:瑞穂市横屋
ねじりマンポのようす
瑞穂市のマンボ探検(5)瑞穂市に残るねじりマンボその1
 朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年で畦地ゼミ所属の仲西祥真です。
 僕は「ねじりマンボ」担当ということで、取材に行き、また色々なことを調べてきました。マンボについては連載の第1回で畦地先生が色々と書いていますが、よそから来て下宿して大学に通っている僕にとっては、正直なんのことやらという世界でした。さらに「ねじれた」マンボ?写真にもあるように、真っ直ぐなトンネルで、特にねじれているようには見えません。いったい何が珍しいのでしょうか?
 それは、このマンボのレンガの積み方にあります。瑞穂市内の他のマンボは、全て線路と直角に交わっています。しかし、横屋地区の犀川に一番近いマンボである甲中吹橋梁だけは、線路と斜めに交わっています。これが、ねじりマンボの秘密です。
 ねじりマンボは、レンガが斜めに積んであり、あたかもトンネル全体をねじりながら作ったように見えます。ねじり棒キャンディーやネジ穴を思い出す人もいるかもしれません。実際に中に入ると、ねじれているのかいないのかわからないのですが、入り口の前に立って下の部分と比較してみると、全体的にねじれているのが分かります。不思議な感じがします。
 ねじりマンボは、瑞穂市内だけにあるものではありません。西宮市のJR「さくら夙川駅」と「芦屋駅」の間には、「西宮のねじりまんぽ」と呼ばれるマンボが残っています。ここはGoogleストリートビューで確認しただけで行ったことはないのですが、瑞穂市のマンボと比べて小さく、深く、鋭角に線路を横切っているようです。ネットで調べる限りにおいては「日本最古のねじりまんぽ」と言われているようです。
 どうしてこのような構造になっているのか、どうやって作ったのかについても気になりますが、一人で考えていてもどうしようもないので、次回に参考文献を調べた結果を掲載したいと思います。
「西宮のねじりまんぽ」は町中の人通りの多い所にあるようですが、瑞穂市のねじりマンボは田園地帯の真ん中なので、ゆっくりと見学することができます。車や自転車がないと行きにくいところですが、みずほバス「十九条古橋線」の横屋公民館バス停からは徒歩5~6分、樽見鉄道横屋駅からでも最短徒歩10分ぐらいで行くことができます。鉄道史跡や近代産業遺産に興味のある人にとっては、お薦めのスポットとなっています。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年 仲西祥真)
平成30年6月27日更新
撮影場所:瑞穂市横屋
JR穂積駅東側のトンネル(マンポ)
瑞穂市のマンボ探検(4)穂積駅東のマンボその2
 前回に引き続き、朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年松尾沙希がお届けします。
 先週、大ピンチに陥った私に、救世主が現れました。うちの学部の先生(朝日大学大学院経営学研究科・荻久保嘉章教授)が書いた『杞柳産業の盛衰』『新版 杞柳産業の盛衰』(成文堂/2009年、2013年)です。2冊とも朝日大学図書館、瑞穂市図書館郷土資料コーナーに常備されています。この本には、昭和30年代まで瑞穂市(穂積地区)で盛んだった柳行李(やなぎごうり)産業について詳しく書かれています。
 なぜ瑞穂市で柳行李の生産が盛んになったのか、理由は色々あります(詳しくは荻久保先生の本をお読みください!)。大きな原因の1つには、穂積に駅ができたからだと言われています。周辺で栽培された杞柳を使った柳行李の小さな工場が商店街沿いに建ち並び、駅の北側にあった貨物ホームから全国にどんどん出荷されていたということです。
『杞柳産業の盛衰』の方には、昭和初期(12年頃らしい)の穂積駅南北商店街の地図が掲載されています(137-138ページ)。当時は北側の方が栄えていたそうですが、柳行李の工場や運送業者、食料品店・料理屋さんなどの普通のお店だけではなく、銀行まであるのにはビックリ。この賑わいは、戦後に段ボール箱が普及するまで続いたようです。
 さて、この地図には駅の北側に「貨物ホーム」、駅の南側には「穂積駅旧駅舎」と記されています。「旧駅舎」というのは、元資料が作られた2001年から見て、ということではないかと思いますので、多分1929年に作られた駅舎のことでしょう。ただ、この地図では駅舎と駅東マンボの間は遠くなっており(ちょうど今のバス専用レーンのあたりに駅がある)、その間を人が歩いて、ホームまで上り下りしていたのかどうかは不明です。
 もう一冊、困ったときには『穂積町史』です。1979年に出版された下巻(近・現代)には「(現在の)穂積駅の駅舎」として「旧駅舎」の写真が掲載されています。写真には、地上にある木造の駅舎とタクシーが写っています。本文には「此の頃の穂積駅(注:1906年の初代駅)は高い所(今のプラットホームに)あって、今のトンネルの中ほどの西側から上り下りした。(中略)昭和四年に駅の建物を現在の位置に新築し、穂積駅は全く面目を一新した」とあります。この通りに読むのであれば、2代目駅(旧駅舎)では、駅東マンボの通路は、もう使われていなかったのではないでしょうか?つまり、あの通路は1906年から1929年の23年間しか使われずに、埋められてしまったということになります。 
 ここまで色々調べてきましたが、駅東マンボの通路よりも、「2代目駅舎」がどのようなものだったのか、どうやってホームに上っていたのか(階段は今の場所?別の場所?)ということの方が気になってきました。私も“学問沼”に落ちつつあるのでしょうか?
 こうしてマンボから始まり駅の歴史を調べていくと、たまに利用するだけの穂積駅の不思議なところに気づかされます。小さな駅なのに線路が何本もあって、電車や貨車が止まっていたりするのは、昔の貨物線(貨物駅)の跡だからということも分かりました。後は、今のホームから駅東マンボに降りる階段の痕跡を探し出すことが宿題になっています。本当に見つかるのかな…?
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年 松尾沙希)
平成30年6月20日更新
撮影場所:JR穂積駅東側のトンネル(マンポ)
穂積駅東のマンポ
瑞穂市のマンボ探検(3)穂積駅東のマンボその1
 朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年で畦地ゼミ所属の松尾沙希です。
 私がマンボ取材をするにあたって聞いた話の中で一番驚いたのは、たまに「狭くて危ないな」と思いながら車で通る穂積駅の東側のトンネルがマンボであることと、昔はそこにホームへ上がる階段通路があり、それもマンボだったという話でした。正直なところ、あのトンネルは普通のコンクリート製に見えます。またホームへの通路があったかどうかなんて、全く気にすることもありませんでした。
 というわけで、行けば何かが分かるだろう。すぐにゼミ生の仲西君と取材してきました。フットワークの軽いところが畦地ゼミの良いところなのですが、なぜか今年は私と仲西君の2人しかいないので大変です…。写真は、交通量の少ない平日午前中に、車が途切れたところを見計らって撮影しています。
 いつも狭い狭いと思っているトンネルの感覚から言うと、本当に人が通れるだけの広さの通路(横穴)があったのかどうか不思議に思っていました。もしかして、腰をかがめないと通れないようなもの…?ですが写真にある通り「狭いけど荷物を持った大人二人がちゃんとすれ違えそうな広さ」の横穴がありました。もっとも、今は板やコンクリートのような物で塞がれた上に、塗装がされてしまっています。
 当時のことを知ろうと、戸田清先生の御本を読んでみたのですが、技術書のようで、あまりよく理解できません。ただ、写真の旧ホーム通路の高さは2.5m、幅も2.5mあるそうです。ホームまでの階段は39段で、戸田先生によると「当時としては普通の考え方では思いも及ばない」地下通路だったそうです。駅舎からホームまで踏みきりで渡るのが普通で、大垣駅には全国でも数少ない跨線橋(こせんきょう)があったそうですが、「一般道路から直接連絡する地下道方式で連絡させて」(戸田先生)という方式は他にはなかったようです。
戸田先生の本には、穂積駅ができるまでの簡単な経緯が書いてありました。まず、1887年(明治20年)に、現在の東海道線の一部となる木曽川-大垣間の路線が開通します。この時の盛土高架は単線用で、高さは3mだったようです。その後、地元の人たちの熱心な誘致運動があり、1906年(明治39年)8月1日に、ようやく「穂積駅」が開業します。そう、8月1日「汽車まつり」の日です!うっかり「行ったことがない」と口走ったら、畦地先生から取材を命じられました。大失敗!
 この穂積駅開業は、線路を複線にするのと同時に、盛り土の高さを現在のもの(路面までの高さ5m)に改修したのだそうです。同時に、現在の駅東側のマンボ(正式名称:一ノ町拱渠)が作られ、南北商店街をつなぐ通路としても大活躍したようです。
「ようです」というのは、実はその後の穂積駅の歴史が、戸田先生の本にも「不明」と書かれているからです。1929年(昭和4年)に線路の南側に新駅舎(2代目)ができ、1985年(昭和60年)から、現在の駅舎になっているとのことです。ただ、この2代目駅舎のことがよく分かっておらず、改札口から通路へどのように結ばれていたのかなどが曖昧なままということです。
 
 ここまで調べたところ、またしても「『ワイワイ会議』に詳しい人がいるはずだから取材に行ってこい!」と命じられてしまいました。硬式テニス部の練習・試合も忙しいというのに、私は一体どうなってしまうのでしょうか…。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科3年 松尾沙希)
平成30年6月12日更新
撮影場所:JR穂積駅東側のトンネル(マンポ)