旧墨俣宿
美江寺と墨俣・旧宿場町比較(1)
 旧美江寺宿の隣の宿場町はどこでしょう?
 もちろん、中山道六十九次の中では、東は河渡宿、西は赤坂宿となります。でも、僕たちが通う朝日大学から見ると、美江寺よりも近い旧宿場町が存在するのです。それが、旧美濃路の墨俣宿です。
 僕たちのうちの一人(棚橋)は自転車で登校するときに毎朝、旧墨俣宿地区を通り抜けます。ゼミの取材で美江寺に行ったときに、「美江寺と墨俣は同じく旧宿場町で近い場所にあるけど、どのような違いがあるのだろうか」という疑問を抱きました。
 美江寺宿は中山道の宿場ですが、墨俣宿はその中山道と東海道の中にある『脇街道』である美濃路の宿場です。脇街道といっても名古屋から関ヶ原を抜けて京都へ至る交通や物流の重要な役割を担っており、中でも墨俣宿は長良川の渡し舟や川湊としてだけでなく川魚料理がおいしい景色の良いところで賑やかな宿場だったそうです。大正時代頃までは、その名残が色濃く残っており、近隣地域では「宴会をするなら墨俣で」というような場所だったということです。
 そんな墨俣宿の現地を調べていくにあたって僕たちはある場所に行きました。それは墨俣町にある『ギャラリー&ショップ』です。僕(棚橋)が大学に通うために使っている道の途中にあり、今まで「ここには何があるのだろう?」と気にはなっていました。ですが外見はどこからどうみても普通の古民家のようなので、「ギャラリー&ショップって書いてあるけど違うのかな?」と勝手に思い込み、今まで入ろうと思ったことはありませんでした。ですが今回、もしかすると墨俣宿について何かご存じの方がいらっしゃるのではないかと考え、思い切って行ってみることにしました。
 インターホンをおすと「少々お待ちください」と言われ少し待つと、中から優しい笑顔の年配の女性が出迎えてくれました。突然の訪問でしたが、朝日大学のゼミ課題の取材をしていることをお話しし、墨俣宿についていろいろ質問してもいいですかときいたところ「私で良ければ」と快くいっていただき、答えてもらいました。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 棚橋伸介、稱解颯星)
撮影場所:旧墨俣宿
中山道美江寺宿写真
美江寺あれこれ聞き歩き(3)美江寺という名の由来とは?
 今の瑞穂市にあたる地域は、昔から水に悩まされたところでした。雨が降れば周辺にある川が氾濫し水害も多く起こっていたそうです。また古地図を見ると中山道がほとんど海岸線にあたるようなものもあり(ただし信憑性に疑問もあるらしいですが…)、近世には輪中が入り組んでいる様子なども描かれています。
 そんな時に、元正天王の勅願で治水や治安維持のために十六条村(現美江寺)に伊賀国名張の坐光寺から観音を移し、本尊とした鎮守の森ができました。つまり、美江寺という名の由来とは、大きな川が治るようにという願いが込められています。「美江」という漢字はそのまま「美しい川」という意味なので、荒れない川への強い想いが伝わってくるようです。
現在の美江寺宿では美江神社という神社が残っており、美江寺という寺はありません。昔は、その地域一帯が美江寺という寺でした。しかし、神社としても歴史は長く、平安時代の「美濃国神明帳」に美江明神という記載が残っています。廃仏毀釈が行われた結果、美江神社のみ残る形となりました。
 なぜ今、地名は「十六条」ではなく「美江寺」なのでしょうか?美江寺の隣の駅名は「十九条」なのに…。
それは歴史に理由があります。美江寺一帯を治めていた美江寺城主和田家は、当時美濃国を守護大名であった、土岐氏に着いていました。しかし、斉藤道三が土岐氏に対して下剋上を果たしたことにより仕方なく斉藤道三に味方することとなりました。斉藤道三は美江寺にあった美江観音を現在の岐阜市に城下町繁栄のために826年間残っていた美江観音を移してしまいました。それに反発した和田家は、条里制による十六条村という地名を使わず、あえて美江寺という地名を残すという形になりました。その後に作られた宿場町の名前にも美江寺が採用され、現在に至るというわけです。
元々あった治水に対する想い、岐阜に持って行かれてしまった観音に対する想いが、今の美江寺という地名に残っているというわけです。このような、人々の強い想いによって、地域は形作られているのだということを、取材を通じて考えました。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 大西梨紗子、松岡彩人)
撮影場所:中山道美江寺宿
中山道美江寺宿
美江寺あれこれ聞き歩き(2)濃尾地震でも耐え抜いた酒屋「布屋」の存在
美江寺には元禄9年(1696)に創業した「布屋」という屋号の酒屋があります。元々は加納藩が美江寺宿の繁栄のために造り酒屋を作るように指示し、加納の酒屋から酒株(酒屋営業権)を分与してもらいできたものです。明治から現在まで140年ほどは酒屋として営業していて、現在の当主は八代目となっています。酒屋としては5年前まで営業していましたが、現在は営業していません。
濃尾地震で美江寺全体が壊滅的な被害を受けた中、唯一残った建物であり、今でも内部は昔のままとなっています。瓦などは取り替えられていますが、以前使われていた鬼瓦は建物内に飾られています。美江寺宿でも歴史ある建物として、様々な文献にも記されています。
今の住宅は、一応、濃尾地震クラスの地震が来ても倒れないと言われています。昔の家は耐震についてあまり考えられていなかったと思うのですが、なぜ布屋さんだけが残ったのか、建物の中に入れていただき、考えてみました。
中から見た建物は、作られた当時に造り酒屋をされていたせいか、とても太い柱が使われていました。それを中心に、やはり何本もの太い木が組まれてあるのが見て取れました。造り酒屋さんは、中に大きな桶を置いて酒の発酵をさせるために、天井が高くなっています。その建物を支えるための特別に丈夫な建てられ方が、大地震でも壊れなかった理由なのかと考えました。特別な計らいで見せていただき、布屋さん、本当にありがとうございました。
なお、他の美江寺の建物との建てられ方を比較してみたかったのですが、濃尾地震の際に布屋以外の家屋はすべて倒壊してしまい、資料が残っていないのだそうです。もし何らかの方法で比較ができれば、今後の震災に備える助けになるかもしれません。
濃尾地震で建物が全て倒壊してしまった美江寺ですが、旧中山道の宿場町であることを誇りとして復興をしたため、今でも当時の道の形をそのままに残されているということです。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年松岡彩人、大西梨紗子)
撮影場所:中山道美江寺宿
中山道美江寺宿写真
美江寺あれこれ聞き歩き(1)
 私たちの班では、美江寺に住んでいらっしゃる複数の方々へお話しをうかがってくるということをしました。どの方も丁寧に教えて下さり、様々なことを知ることができました。特に区長のYさんには、お忙しい中に押しかけたにもかかわらず、多くの時間を割いて美江寺の過去から未来へ渡る話をしていただきました。本当にありがとうございました。
これから、美江寺の皆様から教えていただいた“濃い”インタビューの内容を、数回の連載に分けてまとめていこうと思います。 美江寺ってどういうところなんだろう?と思っている方、たくさんいらっしゃると思いますのでぜひ読んで見てください。
(その1)美江寺の松の木
江戸時代の街道に沿って、松並木があるところが多かったとされています。その中でも特に河渡宿から美江寺宿までの間には立派な松並木があったと言われています。さらに美江寺宿では、五六橋から宿までの250mぐらいの間、両側に松の大木が茂りあっていたといわれています。松並木があったために、夏の炎天下に旅をする人々にとって、その陰は憩いの場になっていました。
 ところが現在は、美江寺に松並木は残っていません。本で調べたところ「濃尾地震の時に燃えた」などの記載もありました。しかし、今回の調査では「松並木は戦争の時に飛行機の燃料にする松脂(松根油)の採取のため、すべて伐採されてしまった」という証言が得られました。それが本当だとすると、せっかくの美しい景色が、戦争によって台無しにされてしまったということなので、非常に残念なことだと思います。
美江寺には、昔の宿屋である「まつや」さんというお家が残っており、その2階の欄干は松の絵と「や」の文字が透かし彫りしてあります。これも松並木に関係あるのかと思ったのですが、お話しをまとめた限りは、そうではないようでした。
 また写真にあるように、現在の美江寺付近の旧中山道を示す標識には、松の絵が描かれています。似たような標識は近隣にたくさんあるらしいのですが、描かれている絵は少しずつ違うようです(垂井の当たりでは椿の花、とか)。これについても松並木との関係を聞いてみたのですが、地元の方にも「よく分からない」というのが本当のところのようです。どなたか、ご存じの方はいらっしゃらないでしょうか?
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 大西梨紗子、松岡彩人)
撮影場所:中山道美江寺宿
五六川親水公園
朝日大生の目で見た瑞穂市あれこれ(4)
 前回紹介した「地名が語る ふるさと穂積」という本から、地域の人たちと水とのつながりが分かる地名を紹介していきます。できるだけ面白い地名を選んでみましたが、みなさんは、いくつぐらい知っていますか?
【源衛さ河渡(げねさごうど)】
穂積の天王川に架かる橋の通称。源衛とは衆議院議員にもなり、治水改良発展に尽くした井上源衛代議士のこと。河渡とは河を渡る(橋)という意だが、天王川が河渡輪中を作る川だからとも考えられる。
【茶屋道(ちゃやみち)】
牛牧の字名。チヤは侵食地形のところを指す言葉で、五六川により度々地形が変わったところからつけられたものと推測できる。
【岡田野(おかだの)】
牛牧の字名。岡田という言葉には乾田とか最上部の田という意味がある。中川の自然堤防部分にあたる微高地で、先人がこの地域の田を農耕に良い土地であってほしいと願ってつけた。
【小銀畑(こがねばた)】
宝江の字名。河川改修によって荒地を開墾して畑として耕作が可能になってから、銀を生む程の豊かな土地であってほしいと願ってつけられた。
【丸竹(まるたけ)】
本田の字名。2つの伝説があるが、どちらが正しいかは分からない。
(1) 大昔、養老地方から稲葉山にかけて船が行き来しており、接岸するための竿竹がかけてあり、その竹が発芽したことから
(2) 洪水の際、船頭がさした青竹が芽を吹いたところである
【昆布(こんぶ)】
只越の字名。海草の昆布に似た藻が繁茂していたからつけられた。
現在の瑞穂市は水が豊かな住みやすい地域ですが、よく川が氾濫した昔には、多くの苦労をしながら住まわれていたのだと思います。その名残が、洪水を思わせる地名(茶屋道)だけではなく、川を鎮めようとした人を称えるもの(源衛さ河渡)、少しでも良い土地であるように願ったもの(岡田野、小銀畑)として残っているのだと思います。また、川を使った交通が盛んだったこと(丸竹)や、ちょっとユーモラスな地名(昆布)もあって、水がなければ瑞穂市は生まれなかったのだな、ということも分かりました。
この本は、瑞穂市図書館(本館)の郷土資料コーナーにあります。自分の住んでいる地名の由来が知りたい人は、ぜひ調べてみてください。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科4年 包子栞里、岩瀬有香)  
撮影場所:五六川親水公園