畦地研究室でのかきりんのようす
年度はじめのご挨拶
 この「写真ニュース」欄は、瑞穂市と朝日大学の包括連携協定に基づき、畦地研究室が学生の地域研究発表の場として使わせていただいているという意味合いを持っています。
 ただし、昨年度後半は主に畦地が瑞穂市内について勉強・取材したことを少しずつ書いていく場となっていました。「学生はどうしたの?」という声も、チラホラ聞こえてきました。
 そんな中で朗報です。今年度は、学生による取材成果の記事を多めにしていくという計画で、本欄を引き続き担当させていただくことになりました。
今後の予定は、おおよそ以下の通りになります。
6~7月頃:マンポを巡るコースを実際に歩いてみた
8~9月頃:瑞穂市の名所を公共交通機関で観光できるか?
10~11月頃:瑞穂市内の夏祭と、その由来
12~1月頃:地域の方へのインタビュー
2~3月頃:麒麟が来ている!
 主役はフレッシュな2年生です。ちなみに上記の過酷な取材予定は今のところ一切知らされておりません。畦地ゼミに参加したばかりの彼らが、どのような表情を見せてくれるか、ご期待いただくこととして、まずはしばしのお休みをいただきたいと思います。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
めぐみ地蔵の写真
瑞穂市ゆかりの人々(3) 内藤十左衛門
 前回は重里出身の名和靖を取り上げました。瑞穂市の中でも重里(十五条村)ゆかりの人物として、もう1人取り上げなければならないのが、内藤十左衛門です。
 宝暦治水(1754-5年)の話は、旧美濃・輪中地帯の住民の多くが知っている歴史上の出来事です。濃尾平野は養老山地の断層のため、西に向かうほど低くなっています。つまり木曽三川のうち揖斐川が最も低い位置にあり、洪水が起こると木曽川の奔流が長良・揖斐川の方へ溢れてくる構造となっています。さらに、尾張藩が自領を守るために築いた、いわゆる「お抱え堤」のため、一度大雨があると、全ての水が美濃側の輪中地帯に流れ込むという状態になっていました。
 この状況を正すべく、さらに薩摩藩の体力を削ぐべく行われた工事が宝暦治水です。木曽・揖斐・長良川の分流と洗堰の設置などで一定の効果はあったのですが、薩摩藩の財力を浪費させるための幕府の様々な工作により、工事に参加した多くの藩士と家老・平田靱負(ひらたゆきえ)は、ある者は恥辱のため、ある者は責任を取り自刃しました(表向きは幕府への抗議と受け取られないため事故死とされた)。
 ちなみに、みなもと太郎の「風雲児たち・外伝」では、その経緯を詳しく取り上げています。絶版中古本がプレミアム価格で1万円を越えていますが…「マンガ図書館Z」(合法・広告表示つきのインターネット・マンガサイト)では無料で閲覧することができます(https://www.mangaz.com/book/detail/43421)。よろしければ、是非お読みください。
 さて、本題の内藤十左衛門です。上述の「風雲児たち」は薩摩藩側からの描かれ方がされているため、 2コマ「何と幕臣の中からも二名 薩摩藩士に同情したか 幕府に抗議して切腹した役人がいるのである」と匿名で紹介されているのみです。このうちの1名が内藤十左衛門です。「すなみ百話」などの記事によると、薩摩義士への同情もさることながら、幕府による査問役が(薩摩藩への嫌がらせの一環として)工事の手抜かりを指摘し、主人(美濃の水行奉行・旗本高木氏)に累が及ぶことを阻止するために一身に責を受け切腹したとのことです。いずれにせよ幕府による理不尽な薩摩藩叩きの酷さが現れたエピソードですが…その後、薩摩藩は財政破綻を避けるために、琉球王国への支配と搾取を強化していきます。琉球の首里王朝は、その負担に耐えるため、八重山諸島への搾取を強化していきます。岐阜と鹿児島は宝暦治水を機縁とした姉妹県であり、本学には沖縄(本島、八重山両方)出身の学生が多く通っていますが、このような歴史の糸を忘れることがあってはならないと思います。
 内藤十左衛門顕彰碑は、海津市・千本松原の治水神社に建てられ、薩摩義士と同様に、治水に尽くした人物として祀られています。(今回の写真は、重里の“めぐみ地蔵”堂です)
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成31年3月27日更新
撮影場所:重里めぐみ地蔵前
条里跡の石碑と風景の写真
瑞穂市ゆかりの人々(2)名和靖
 ギフチョウの名付け親で、その生態を明らかにした高名な昆虫学者の名和靖(なわやすし)。岐阜公園内の「名和昆虫博物館」に行ったことがあるという人も多いでしょう。そのイメージから、岐阜市(あるいはギフチョウの採集地である下呂市金山)出身の偉人と思いがちですが、実は現在の瑞穂市重里にあたる地域のご出身です。生来の(そして家庭環境からの)昆虫好きに加えて、農村のために役立つ研究をしたいということから、昆虫学者になったということです。ギフチョウの研究も偉大ですが、実はウンカ対策の一連の研究が、現在につながる害虫駆除の礎となっています。
というわけで、重里に赴きました。ここには「昆虫翁 名和靖 生誕の地」の記念碑があるのですが、出生地は母親の実家である岐阜市という話もあり(「まいあがれ!春の女神」(赤座憲久/PHP研究所))、あまりはっきりしません(もしかして岐阜市出身…?)。ただ重里の庄屋の息子として、瑞穂市の田園が少年・名和靖を育んだことは間違いがないようです。
名和昆虫博物館についても様々述べたいことがありますが、来年度の頭出しだけ。「じゃあ今回の写真はどうしよう?」「重里といえば“めぐみ地蔵”」ということで、周囲の田園風景も含めて撮影しようと思っていました。しかし、あらためて現地に行って気づいたのは、めぐみ地蔵から道を挟んで反対側にある「土地改良記念公園」。「これ、なんだっけ?」とバイクを回してみると…1972年から(「すなみ百話」では1971年から)1978年にかけて行われた総合的な土地改良の記念碑などがありました。「農地の集団化…田畑輪換…機械科営農に対応」(碑より)するため、農道・県道整備や水路改良も含む大がかりなものだったようです。
 同地には、写真にある「条里跡」の碑も。土地改良により往時の条里制の枠組みは「様相を一新した」(碑より)とのことで、条里制地割を後世に残すために建てられたとのことです。ただ「すなみ百話」には「多くは条里制のころの位置」に整理されていると書かれており、真相は今のところ判断できないのですが、いずれにせよ南北に延びる道路は今も往時の地域計画を物語っていると思います。
 もう一件、うかつにも知らなかったことが。重里という地名は、旧十五条村と旧三日市場村が1875年に合併し、「二つの重なった村すなわち重里と改名」(すなみ百話)したものなのだそうです。名和靖は、正確には「十五条村」出身ということになります。なぜ本巣市十四条の次が十七条まで飛んでいるのか、これにて解明(十六条は美江寺に改名)。
写真では見えにくいですが、画面奥、道の向こうには桃の花が満開でした(撮影日:2019年3月15日)。名和靖の少年時代を思い起こさせる、春の朝でした。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成31年3月20日更新
撮影日:2019年3月15日
川崎神社の鳥居前の写真
瑞穂市ゆかりの人々(1) 川崎平右衛門
 今回から3回に渡り、来年度の企画に向けての布石として、瑞穂市ゆかりの人々を改めてご紹介していきます。回数の都合で、今回の川崎平右衛門に加え、内藤十左衛門、名和靖を取り上げたいと思います。
 さて、このコーナーの本体である「ちょっと気になるまち岐阜みずほ」にも記述のある有名人・川崎平右衛門ですが、簡単におさらいをしておきます。1668年から1770年のおよそ100年間、本田に代官所が置かれ、天領(幕府の直轄領)となっていた時代がありました。なぜ天領だったのかについてはネガティブな噂…つまり水害が多くてどの大名も欲しがらない土地だったから…があるのですが、その真偽はさておき、この時代に地域の治水が進んだことは確かです。そのエポックメイカーが本田代官として赴任したのが、川崎平右衛門ということです。
 以下「穂積のあゆみ」(1987年、穂積町教育委員会)の記述を紹介します。なんと節のタイトルが「神様になった代官川崎平右衛門」です。彼は元々武蔵国多摩郡(現在の府中市)の農民として生まれましたが、灌漑工事や新田開発の手腕により、江戸町奉行大岡忠相や八代将軍徳川吉宗からの信頼を受けるようになったとのことです。いきなり「江戸を斬る」や「暴れん坊将軍」の世界に!その後、玉川上水の改修工事などを経て、1744年に本田代官として着任します。
 彼の本田代官としての活躍で今も残るのは、五六川最下流部にある「牛牧閘門」です。現存のものは大正時代に改築された物(とはいえ歴史的な珍しい工法で造られている)で、初代は木造だったようです。ただ、ちょっとした大雨の度に長良川方面から水が逆流して田畑が水に浸かってしまうような土地が、この閘門の完成により“新田”として生まれ変わったのは確かです。その地名が、現在の“野田新田”“野白新田”に残っています。治水は「こちらを治めれば、あちらが水に浸かる」という難しい面を持っています。牛牧閘門の建設に際しても上下流の村々からの猛反発があったようです。彼は、そこを丁寧に説明し、取り持ちながら、最終的には多くの人の利益となる事業をやり遂げたとのことです。
 さて「穂積のあゆみ」には、野田新田と別府花塚に、川崎平右衛門を祀った「川崎神社」が建立されたと書かれています(野田新田は写真付き)。ところが、ヨソモノの私には、両方とも場所が分からない…先週に引き続き、きちんと歩いて見て取材しないとダメですね。
一方で、橋本の八幡神社さま(写真)は「川崎神社」としてお祀りされています。牛牧閘門にも小さなお社がありますね。「穂積のあゆみ」では「利益を受ける村々は、川崎平右衛門への感謝を忘れないため、神様としてまつることにした」と節が締められています。当地では神様として祀られ、また府中市でも郷土博物館・公園の敷地内に銅像が置かれている歴史上の偉人。果たして「大岡越前」など時代劇への出演はあったのでしょうか?年度をまたいで現地取材を敢行したいと思っています。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成31年3月7日更新
水槽に入った気持ちになるかきりんの写真
ちょっと気になる瑞穂だね(10) 美しい水の町・瑞穂市の湧き水
 今回はイメージ写真にてお送りいたします。スケキヨではありません。かきりんです。
「すなみ百話」(1992年刊行)の執筆担当をされたM先生のお話を伺う機会がありました。瑞穂市は水害に悩まされた地域ゆえに、現在も必死で治水対策を行っている一方、市内のあちこちに豊かな湧き水がある場所なのだということです。湧き水のことを「がま」と呼びます。多くのがまは地下水位の低下でなくなってしまいましたが、今でもハリヨ(西濃と滋賀県の一部にしか生息しない絶滅危惧種の淡水魚)が泳ぐ場所があります。
 その一つが“はた織りがま”(十八条東沼とも)です。場所は給食センターの敷地内。かきりんと写真を撮りに行こうと思ったのですが、給食センターの敷居が高く、残念ながら現地に行くことができませんでした。2017年の市の審議会でも「子供たちが行けるようにしたらどうか」という議論があったようなのですが、現状は誰でも立ち寄れるような雰囲気ではありません(施設の性格上、逆に誰でも入れる方が問題ではありますが…)。※1
 閑話休題。「すなみ百話」では、このがまは最初の話として取り上げられています。正月の朝にだけ、はたを織っているような音が聞こえるという伝説が“はた織りがま”の名の由来だそうです。真っ青な水を湛えた底の見えない泉であるため「竜宮城につながっている」とか「のぞき込むと、はた織りの姫に引き込まれる」というような噂もあったとのことです。写真のかきりんは、ハリヨならぬ金魚の棲む水槽に完全に沈んでしまっていますが。
 この“はた織りがま”、今回は現地で実見できなかったのが悔やまれます。私は岩手県岩泉町の龍泉洞(世界最高の透明度を誇る地底湖を持つ鍾乳洞)が大好きなのですが、あちらも底知れぬ真っ青な水を湛えています。一説には水深120mを超えるようなところもあるそうなのですが…はたして“はた織りがま”はどうでしょうか?常識的には湧き水は浅い地下水脈から出ているのですが、竜宮まで通じているとされる深さは、もしかするとさらに深い水脈(市の水道源となっている深さ120m以上の地下水)につながっているのではないでしょうか…?ぜひ調査を行っていただくと共に、ハリヨの生息に影響がない程度には、市民が気軽に触れられる場所としていただきたいものです。※2
 その他にも「すなみ百話」には蛇池という、大蛇が棲んでいたとされるがまの話も掲載されています。年に一回、熊野神社の祭礼の時だけ、今テレビでもお馴染みとなった“かい掘り”で魚を捕る習慣があったそうですが、水位の低下と共に埋め立てられて、柿畑にされてしまったということです。開発と共に失われてしまう景色がある寂しさの一方で、こうして「ここに何があった」という話をまとめていく郷土を愛する人々の力には心強さを感じます。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成31年2月27日更新
※1、※2総合政策課からのお知らせ:給食センターの南側の道路から自由に入れます。駐車場もありますので、みなさんお気軽にお越しください。畦地先生にこの情報をお伝えしなかったため先生にはご不便をおかけしました。