旧墨俣宿
美江寺と墨俣・旧宿場町比較(3)
 僕たちのゼミの連載も今回で最後ということで、先週までの墨俣について聞いたこと調べたこと、美江寺の比較をして、まとめて行きたいと思います。ちなみに僕たちの班も美江寺には何度も行き、さらに班同士(ゼミ全体)で情報交換をしているので十分な比較ができると思います。
 美江寺と墨俣の景観は、あまり変わらないと思います。昔は宿屋や料亭だったお家も普通の民家になったところが多く(お話を伺ったショップも、最初は民家と思っていました…)、取り壊されて新しい住宅や駐車場のようになっているところも多くあります。また、平日の日中には、あまり人が歩いていないという印象も似ています。一方で、お祭りのときには多くの人があふれるところ、住んでいる方々が旧宿場町であることに誇りを持っているところは似ていると感じました。
 取材した範囲で分かった違いがあるとすれば、町を象徴するランドマークがあるかという点と、観光客に対する分かりやすさの配慮だと思います。
 墨俣には「墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)」があり、通りかかった人達が絶対に「何かある」と気づく場所となっています。先生に話したところ「あれは城の形をしたビル」などと悪口を言っていましたが、僕たちは素直に「誰でも分かる町のシンボルがあるのはうらやましい」と感じました。美江寺に新しく城(ビル?)を建てるのは難しいでしょうが、神社を整備したり、残っている旧家を修復したりなど「ここが美江寺だ」と目に見て分かる場所があるといいなと思いました。
 分かりやすさについてですが、初めて美江寺宿に行ったときは、どこに何があるのかわからず、結局その日は何も見ることなく帰ることになってしまいました。実は行きはバスで来て、帰りは鉄道で帰ろうと駅に向かう途中に、しっかりと案内板を発見したのですが…。初めて訪れた人にとっては、名所旧跡の案内がやや分かりにくいと思います。それに比べ墨俣宿は、前回の記事やこの記事の写真にあるように、町の道路のあちこちの足元に案内が描いており、圧倒的に分かりやすく、町を巡りやすいと思いました。
 自転車班の取材にもあったように、他の旧宿場町と比べることによって、どうやって美江寺の存在感を上げていくのかを考えることができると思います。また、先輩方や大西・松岡班の取材にあるように、美江寺には他の場所にはない良いところがたくさんあると思います。こういったことを合わせて考えていくことで、旧美江寺宿を盛り上げていく手がかりがつかめるのではないかと考えました。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 棚橋伸介、稱解颯星)
撮影場所:旧墨俣宿
旧墨俣宿
美江寺と墨俣・旧宿場町比較(2)
 墨俣町内にある『ギャラリー&ショップ』の方からは、現在の町の様子と、観光についての考え方を教えていただきました。
 最初に伺ったのは僕(棚橋)自身が毎日通学するたびについつい目に入る、墨俣の町中にある行燈についてです。これは地域の協議会の提案で数年前から有志の家々に置かれ始めたそうです。いろいろなところに置いてあるのを見ると、住んでいる人たちの多くが墨俣宿を盛り上げていこうとしているのだなと感じました。昨年の冬休み前、たまたま日が落ちてあたりが暗くなり始めた頃に通ったことがあるのですが、見るとホッとするようなオレンジ色の明かりがついていてキレイだったのを覚えています。(ただし、いつもは日が暮れたころにアルバイト先から帰ることが多いので、毎日ついているのかはわかりません)
 有志の家による行燈の設置だけでなく、墨俣は観光に力を入れているのだな、と思わせれることに、いくつか気づきました。道路の地面には『○○(墨俣の名所)まで××m』という案内が描いてあり、観光に来て「どこになにがあるのかが分からない」人でも、安心していろいろな名所を巡れるようになっています。僕たちが伺った場所も、週末はお土産処として地域の人が手作りした『つりびな』やハンカチ、置き物を売っているそうです。少し見せていただいたのですが、どれも芸が細かくひとつひとつがしっかりと作りこまれていて、なおかつ手作り品という温かさを感じました。ひよこに一目ぼれをして、僕(棚橋)も1つ買ってしまいました。
 次に聞いて教えてもらったことは『つりびな小町めぐり』についてです。ご存じの方も多いと思いますがこれは2月下旬から3月上旬まで旧墨俣宿一帯で行われているイベントです。名前にもはいっている『つりびな』が飾られるだけでなく、スタンプラリーや写真展などの催し物があるそうです。テレビでも放送されたことがあるそうで、放送後はかなりの人が来たとギャラリー&ショップの方も嬉しそうに話していました。普段の墨俣とはまったく違う雰囲気が味わえるそうです。(今年は2月25日から3月12日までやっていたそうです。)
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 棚橋伸介、稱解颯星)
撮影場所:旧墨俣宿
旧墨俣宿
美江寺と墨俣・旧宿場町比較(1)
 旧美江寺宿の隣の宿場町はどこでしょう?
 もちろん、中山道六十九次の中では、東は河渡宿、西は赤坂宿となります。でも、僕たちが通う朝日大学から見ると、美江寺よりも近い旧宿場町が存在するのです。それが、旧美濃路の墨俣宿です。
 僕たちのうちの一人(棚橋)は自転車で登校するときに毎朝、旧墨俣宿地区を通り抜けます。ゼミの取材で美江寺に行ったときに、「美江寺と墨俣は同じく旧宿場町で近い場所にあるけど、どのような違いがあるのだろうか」という疑問を抱きました。
 美江寺宿は中山道の宿場ですが、墨俣宿はその中山道と東海道の中にある『脇街道』である美濃路の宿場です。脇街道といっても名古屋から関ヶ原を抜けて京都へ至る交通や物流の重要な役割を担っており、中でも墨俣宿は長良川の渡し舟や川湊としてだけでなく川魚料理がおいしい景色の良いところで賑やかな宿場だったそうです。大正時代頃までは、その名残が色濃く残っており、近隣地域では「宴会をするなら墨俣で」というような場所だったということです。
 そんな墨俣宿の現地を調べていくにあたって僕たちはある場所に行きました。それは墨俣町にある『ギャラリー&ショップ』です。僕(棚橋)が大学に通うために使っている道の途中にあり、今まで「ここには何があるのだろう?」と気にはなっていました。ですが外見はどこからどうみても普通の古民家のようなので、「ギャラリー&ショップって書いてあるけど違うのかな?」と勝手に思い込み、今まで入ろうと思ったことはありませんでした。ですが今回、もしかすると墨俣宿について何かご存じの方がいらっしゃるのではないかと考え、思い切って行ってみることにしました。
 インターホンをおすと「少々お待ちください」と言われ少し待つと、中から優しい笑顔の年配の女性が出迎えてくれました。突然の訪問でしたが、朝日大学のゼミ課題の取材をしていることをお話しし、墨俣宿についていろいろ質問してもいいですかときいたところ「私で良ければ」と快くいっていただき、答えてもらいました。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 棚橋伸介、稱解颯星)
撮影場所:旧墨俣宿
中山道美江寺宿写真
美江寺あれこれ聞き歩き(3)美江寺という名の由来とは?
 今の瑞穂市にあたる地域は、昔から水に悩まされたところでした。雨が降れば周辺にある川が氾濫し水害も多く起こっていたそうです。また古地図を見ると中山道がほとんど海岸線にあたるようなものもあり(ただし信憑性に疑問もあるらしいですが…)、近世には輪中が入り組んでいる様子なども描かれています。
 そんな時に、元正天王の勅願で治水や治安維持のために十六条村(現美江寺)に伊賀国名張の坐光寺から観音を移し、本尊とした鎮守の森ができました。つまり、美江寺という名の由来とは、大きな川が治るようにという願いが込められています。「美江」という漢字はそのまま「美しい川」という意味なので、荒れない川への強い想いが伝わってくるようです。
現在の美江寺宿では美江神社という神社が残っており、美江寺という寺はありません。昔は、その地域一帯が美江寺という寺でした。しかし、神社としても歴史は長く、平安時代の「美濃国神明帳」に美江明神という記載が残っています。廃仏毀釈が行われた結果、美江神社のみ残る形となりました。
 なぜ今、地名は「十六条」ではなく「美江寺」なのでしょうか?美江寺の隣の駅名は「十九条」なのに…。
それは歴史に理由があります。美江寺一帯を治めていた美江寺城主和田家は、当時美濃国を守護大名であった、土岐氏に着いていました。しかし、斉藤道三が土岐氏に対して下剋上を果たしたことにより仕方なく斉藤道三に味方することとなりました。斉藤道三は美江寺にあった美江観音を現在の岐阜市に城下町繁栄のために826年間残っていた美江観音を移してしまいました。それに反発した和田家は、条里制による十六条村という地名を使わず、あえて美江寺という地名を残すという形になりました。その後に作られた宿場町の名前にも美江寺が採用され、現在に至るというわけです。
元々あった治水に対する想い、岐阜に持って行かれてしまった観音に対する想いが、今の美江寺という地名に残っているというわけです。このような、人々の強い想いによって、地域は形作られているのだということを、取材を通じて考えました。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年 大西梨紗子、松岡彩人)
撮影場所:中山道美江寺宿
中山道美江寺宿
美江寺あれこれ聞き歩き(2)濃尾地震でも耐え抜いた酒屋「布屋」の存在
美江寺には元禄9年(1696)に創業した「布屋」という屋号の酒屋があります。元々は加納藩が美江寺宿の繁栄のために造り酒屋を作るように指示し、加納の酒屋から酒株(酒屋営業権)を分与してもらいできたものです。明治から現在まで140年ほどは酒屋として営業していて、現在の当主は八代目となっています。酒屋としては5年前まで営業していましたが、現在は営業していません。
濃尾地震で美江寺全体が壊滅的な被害を受けた中、唯一残った建物であり、今でも内部は昔のままとなっています。瓦などは取り替えられていますが、以前使われていた鬼瓦は建物内に飾られています。美江寺宿でも歴史ある建物として、様々な文献にも記されています。
今の住宅は、一応、濃尾地震クラスの地震が来ても倒れないと言われています。昔の家は耐震についてあまり考えられていなかったと思うのですが、なぜ布屋さんだけが残ったのか、建物の中に入れていただき、考えてみました。
中から見た建物は、作られた当時に造り酒屋をされていたせいか、とても太い柱が使われていました。それを中心に、やはり何本もの太い木が組まれてあるのが見て取れました。造り酒屋さんは、中に大きな桶を置いて酒の発酵をさせるために、天井が高くなっています。その建物を支えるための特別に丈夫な建てられ方が、大地震でも壊れなかった理由なのかと考えました。特別な計らいで見せていただき、布屋さん、本当にありがとうございました。
なお、他の美江寺の建物との建てられ方を比較してみたかったのですが、濃尾地震の際に布屋以外の家屋はすべて倒壊してしまい、資料が残っていないのだそうです。もし何らかの方法で比較ができれば、今後の震災に備える助けになるかもしれません。
濃尾地震で建物が全て倒壊してしまった美江寺ですが、旧中山道の宿場町であることを誇りとして復興をしたため、今でも当時の道の形をそのままに残されているということです。
(朝日大学経営学部ビジネス企画学科2年松岡彩人、大西梨紗子)
撮影場所:中山道美江寺宿