片樋マンポのようす
瑞穂市のマンボ探検(2)マンボと地域性(朝日大学大学院経営学研究科 教授 畦地 真太郎 先生の連載です)
 関ケ原町の町おこし住民集会に参加したことがありますが、そこでも「地域におけるマンボの重要性」が熱く話し合われていました。ただし、話題になっていたのは鉄道高架下のマンボではなく、地下農業用水路としてのマンボでした。関ケ原町から垂井町にかけて、また旧上石津町から北勢地方にかけての養老山地と鈴鹿山脈に挟まれた地帯では、地下水路としてのマンボが発達しています。(写真は、昨年度ゼミ生が自転車で取材に行った、いなべ市の「片樋のまんぼ」です)
 関ケ原では「瑞穂市のマンボは、こちらから技術者が手伝いに行って掘った」というお話も伺いました。一方で、鉄道構造物としてのマンボはイギリスからの当時の最新技術を用いて作られたという、小野田滋先生の説も有力です。地下水路のマンボは手彫りそのままなのですが、東海道線のマンボは全てレンガで補強してあります。その中には「ねじりマンボ」といった、明らかにイギリスの鉄道遺構と全く同じ構造のものがあるということが根拠です。もしかすると、日本の伝統的な掘削職人の腕も入っていたのかもしれませんが、基本的には西洋の技術で作られているのが瑞穂市内のマンボということのようです。
さて引っ張りに引っ張った「どうしてマンボと呼ぶのか?」の回答。それは「分かりません」が正解です。がっかりしますね。
 小野田先生の本では、マンボの語源には諸説あると分析されています。谷崎潤一郎は小説「細雪」の中で「オランダ語が語源」としています。ちなみに、作品中のマンボは現在の兵庫県西宮市近辺のもので、一部は現存しています。その他にも坑道を表す「間歩(まぶ)」に由来するとか、マンホールに由来するとかいう説もあるそうなのですが、結局のところよく分かっていないようです。
 ちなみに畦地が以前唱えていた「魚のマンボウに由来する」「あのトンネルでマンボを踊るブームがあった」という説は、全く関係がないことが分かっています。
 日本国語大辞典で調べた語源初出が1612年であることを考えると、上の説のうち「間歩」説が正しいように思われます。戦国時代後期から江戸時代初期にかけて、西欧の影響により金銀山の採掘技術が発達しました(例えば世界遺産の石見銀山など)。この技術が農業用水に転じ、関ケ原などの大規模地下水路に活かされたと考えるのが自然でしょうか。しかしさらに「ではどうして坑道のことを“まぶ”と呼ぶの?」と考えると、正直お手上げです。
こうして、地域の小さな事を調べ始めるだけで、抜け出せない深みに足を踏み入れてしまうところが“学問沼”の恐ろしいところです。我こそはこの謎を解き明かしてみんと思わん方は、私と一緒に朝日大学大学院で研究してみませんか?(畦地真太郎)
平成30年6月6日更新
撮影場所:三重県いなべ市