更新日:2008年08月30日
公武合体のため仁考天皇の第8皇女和宮が徳川第14代将軍家茂公に嫁ぐため中山道を御降嫁された時、呂久川(現在の揖斐川)を御座船でお渡りになる時、色麗しく紅葉しているもみじを一枝舷に立てさせられ、玉簾の中からご覧になり、
おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
と御感慨をお詠みになりました。
この御渡船を記念し、歴史ゆかりの呂久の地に記念碑建立の気運が高まり、昭和4年4月その名もゆかしい「小簾紅園」が完成しました。その後、毎年春と秋の2回宮の遺徳をしのび例祭がおこなわれています。
昭和51年10月には、皇女和宮100年祭が秩父宮妃殿下の御来臨を仰ぎ岐阜県知事を始め多数のご臨席を得て盛大に挙行されました。
全国神社の本宗である伊勢神宮は、皇位の御しるしの八咫(やた)の鏡をご神体とし、皇祖天照大神をお祀りしている皇大神宮(内宮)が信仰の中心となっています。垂仁天皇の時代、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神をお祀りするのに最もふさわしい地を求めて、大和から伊賀、近江を経て、美濃の国の伊久良河宮に遷られました。「日本書紀」をはじめ「倭姫命世記」などには、伊勢神宮の御遷幸のことと共に、伊久良河宮のことも記されています。
居倉の天神神社が伊久良河宮の跡で、境内には古代の祭祀遺跡で、神の宿る石という意味の御船代石(みふなしろいし)が祀られており、神獣文鏡などの祭祀遺物が出土しています。
美濃国本田の代官になった川崎平右衛門は、五六川の河口に牛牧閘門を造り水害から村を救いました。訃報に際して、近隣の村の代表が武蔵国まで出かけ、愛用の太刀を形見にもらい受けてこの興禅寺に埋めました。その徳をたたえて墓碑を建てたのです。
長良川の支流、五六川の流末に五六閘門または牛牧閘門と呼ばれる樋門(水門)があります。この水門は、長良川からの逆流による水害から地域を守るため、1907(明治40)年に造られたものです。
1749(寛延2)年、本田代官となった川崎平右衛門の尽力で、この地に初めて木材で水門が造られました。
その後、1907までの153年間に4~5回建て替えられ、1907年に「人造石」工法で永久的な水門となりました。この工法は「コンクリート」工法が普及する以前の工法で、わが国の左官の伝統的技法である「たたき」を利用した珍しい工法です。岐阜県内に現存する水門の中で、唯一の「たたき」構造物です。
中山道69宿のうち56番目のL字型に折れた小規模な宿場で、L字の角地(現在はT字路)には美江寺観世音があり、地名の由来とされています。宿駅制廃止から110年を経て、宿場の面影を残すものが何一つなくなりつつあり、1984(昭和59)年9月に巣南町合併30周年・町制施行20周年記念事業の一環として、美江神社境内に「中山道美江寺宿跡」碑を建立しました。
その他、旧宿場内には「美江寺一里塚跡」碑や「本陣跡」碑などがあります。
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| 小簾紅園(市指定史跡) |
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| 伊久良河宮跡「天照大神御船代石」と「倭姫命御腰懸石」 |
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| 川崎平右衛門の墓碑 興禅寺(市指定史跡) |
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| 牛牧閘門 |
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| 竣工当時(明治40年)の牛牧閘門 |
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| 中山道美江寺宿跡(市指定史跡) |
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| 木曽街道六拾九次之内 美江寺(広重画) |
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