一千年供養碑を前にするかきりんの写真
日本かきりんの旅(4) 福生寺富岡観音堂(会津美里町)その2
 写真は富岡観音堂の境内にある「大口大領一千年供養碑」です。会津美里町が合併する前の「会津高田町史」は新旧2バージョンあるのですが、その話を総合すると…。
 大口大領は“大口信満”という名の地頭でした。住まいは記述から推測するに、富岡観音堂から北に4kmほど離れた集落のあたりだったのでしょうか。平安時代の人なので、当時とは大分地形も変わっているのでしょうね。それはさておき彼は信心深い人で、791年に亡くなった妻を弔うために、毎年京都に上り天台宗の講話を聞くような人だったそうです。京都で高僧に7寸5分(28.5cm)の観音像を彫ってもらったところ、その仏像が7尺5寸(285cm)の大きさになって動かなくなり、やむを得ず美濃の谷汲にお祀りしたということです。谷汲の方では「(前段ほぼ同じ)会津で神木を得て、京都で仏像として彫ってもらい(後段ほぼ同じ)」という伝説が残っています。木を会津から持ってきたか、途中で大仏となったかの違いがありますね。
 その後815年に、彼は谷汲にて没したという伝承があります(子孫は華厳寺門前に宿屋を営み、現在も「富岡屋」という飲食店を商われています)。富岡観音は彼が持ち帰った頂上仏(十一面観音像の頭の上にいます小観音)を元に、たまたま承和年間(834-848年)にこの地に来た円仁(おそらく中尊寺・立石寺の開祖・慈覚大師)によって現在の像が造られたとのことです。
 谷汲山の史料では「頂上仏は会津に一度持ち帰られた後、大口大領とともに谷汲に戻ってきた」とあるとか、円仁は承和年間ほとんど唐で修行していたとか、そもそも現存する富岡観音が鎌倉末期から室町時代にかけての造立と推定されているなど、色々辻褄が合わない部分もあります。写真の「一千年供養碑」には「寛政五癸丑(1793年)」と彫られているのに、彼の伝没年は815年ですしね…。(先だった妻の供養碑?)
 それより問題なのは、会津側の資料のどこにも別府観音のことが載っていないこと。別府観音縁起で重要な役割を果たすもう一人、岡部六弥太忠澄も、すでに居倉のあたりに安置されていた観音様を、母方の縁のある別府に移したのですものね…。会津にも「2体の観音像を造った」という伝承なりがあると良いのですが…。このあたりはさらなる宿題ですね。今回渉猟できたのは、町史と一般書の類のみなので、会津美里町の郷土史家の方などからお話しを伺う必要があるかもしれません。
 ところで。福生寺には、この地が出身とされる若かりし慈眼大師天海が修行をしたという言い伝えがあるそうです。天海と言えば、そう、徳川家康に“東照大権現”の神号を進言し、上野の寛永寺を創建した天海。正体・明智光秀説がささやかれる、あの天海大師です。つまり明智光秀は若かりしころ富岡観音で修行し、織田信長の家臣として働き本能寺で討ち取った後に天海となった!麒麟が来る!!こうして混沌を深めていく一方の歴史沼ですが、進展がありましたら本欄でお伝えしていきたいと思います。
令和2年1月15日更新
(朝日大学大学院経営学研究科教授・畦地真太郎)
撮影場所:富岡観音堂(会津美里町)
撮影日:令和元年12月下旬