八池山正蓮寺前のかきりん
かきりんがくる(7) 一向一揆・織田信長・津島神社
 織田信長というと「空は飛んで怪光線を出して巨大化したり この世を魔界にかえたり 体真ッ二ツでお茶立てたり」(平野耕太「ドリフターズ」少年画報社より)ということで有名な、一言では語れない日本史上の大魔人とされています。とはいえ、現在の信長研究(の一般書)を通読する限り、織田信長は同時代人の権力者として、取り立てて暴虐・無信心な人間ではなかったとのことです。例えば“桶狭間の合戦”直前には熱田神宮に参拝したことが知られていますし、安八町の結神社には、長篠合戦を控えた信長が戦勝祈願の奉納を行ったという記録が残っています。「自分が神になろうとした」という記録は宣教師が上司に提出した「だから罰が当たって殺された」という文脈の報告書にしか残っていません。
 では何故、比叡山や一向宗を虐殺したかというと…これは戦略的目的に合致するからとしか言いようがありません。できるだけ味方の損失を少なくし、禍根となる敵の拠点を粉砕する。虐殺された方はたまったものではないのですが…女子供も含めて“戦闘員”と見なされる、あるいは“奴隷”として売り飛ばされる、人権も戦争法もない時代の常識的な動き方だったとも言えます。羽柴秀吉も、三木の干し殺し・鳥取の渇え殺しに代表される兵糧攻めや水攻め(殲滅戦)が得意でした。
 さて、信長に反抗するために立てこもった石山本願寺の救援には、当時の信長のお膝もとも言える現在の瑞穂市地域からも門徒衆が駆けつけました。「巣南町史」によると、西濃のかなり広い範囲に点在する「七か寺」の住職がそれぞれ門徒を引き連れ、兵糧調達に尽力したとのことです。当然、信長方の関所があちこちに設けられており、ある者は姿を変え、ある者は山道を迂回し、しかし幾人かは信長の手勢に追撃されるという様子だったそうです。この七か寺には、共有の寺宝として「蓮如上人御自画御寿像」が残されているとのことです。その七か寺の一つ、瑞穂市内に現存するのが「八池山正蓮寺(浄土真宗本願寺派)」です。写真は、かきりんが見切れてしまっていますが、立派なお寺ですね。
 さて、ここからは津島市で聞き込んだ噂話です。長島一向一揆の鎮圧戦は3次に渡り行われました。第3次合戦の時には、信長は本来の本拠地である津島湊に陣を構え、上述のような火攻め・撫で切り作戦を行いました。
 ところが、津島は寺の町とも自称するほど寺が密集しており、そのほとんどが浄土真宗系で、多くは戦国期には成立していました。つまり、信長が本陣とした町に、敵方の勢力が放置されていたということです。さらに一般的には“皆殺し”にされたはずの一揆衆ですが、津島の寺には「長島から逃げてきた門徒を保護した」という文献が残っているのだそうです。噂話では「手元に逃げ込んできた鳥は、見て見ぬふりしたんやろ。というか、そういう逃げ道を残しとったんやろな」ということでした。
 当時の“窮鳥”と“怨敵”の線引きがどのような基準だったのかは、知るよしもありません。ただ、噂や残っているという文献を信じるのであれば、信長もただ血に飢えて門徒を虐殺したのではないということになります。
 もう一つ。正蓮寺には薬師如来座像をお祀りした別堂があります。薬師如来は津島神社におわします津島大神牛頭天王の本地(仏としての神の正体)とされています。浄土真宗の本尊は西方浄土をつかさどる阿弥陀如来(の名号「南無阿弥陀仏」)で、東方浄土をつかさどる薬師如来を別途お祀りするのは必ずしも不自然ではありません。ただ、立像を旨とする浄土真宗の阿弥陀如来像に対し、この薬師如来は座像…ちなみに牛頭天王像の多くは座像です。
 本来であれば正蓮寺様に縁起を取材に行く必要があるのですが、今回は勝手なことを言い散らかしてこの辺で。ただ、地域には信長という時代の巨人の強い影響が残っているのではないか。人々と権力と宗教と、そんな複雑な思いを抱いたのどかな秋の朝でした。
(朝日大学大学院経営学研究科教授 畦地真太郎)
平成30年12月5日更新
撮影場所:八池山正蓮寺